美しい文章 8: 池田理代子『ベルサイユのばら』

時間つぶしのためにふらっと入った書店の雑誌コーナーで、
不意打ち的になんとも懐かしい人に出会って、
心の奥の軟らかいところに、ふわっと甘やかなものがそよいだ。


私はPen という雑誌はその存在も知らなかったのだけれど、
藤沢周平さんとオスカル様だけは、目にした以上どうしたって素通りできないタチだから、
とりあえず即座に手に取ってみる。

特集のトップは『リボンの騎士』6ページ。次に『ベルばら』が、なんと8ページ! 
その他、ボリュームある特集みたい。そそられる。

ただ、目次の次の Pen News というページには、
ピンクがかった男物の靴のでっかい写真があって、
コルテというパリの紳士靴の「メゾン」(なんじゃら?)の
「ベルエア―」というシリーズなんだとか。

スポーツマガジンを思わせる、ちょっとクサイ文章で、

こんな高級靴についてウンチク垂れながら、
一緒にいる女友達がカワイイって言ったから、
じゃぁ、買おうかなってくらいのノリで買ってしまえる、
なんてスタイリッシュなボク……臭が漂っていると思ったら、

その靴のお値段、なんと165900円ナリ。

わー、イヤな男を読者対象とした、
なんて厭らしーコンセプトの雑誌なんだ?
こんなの買いたくないわ。

……と、いったんは棚に戻しかけた手が
それでもやっぱりオスカル様との別れがたさで止まったので、
あはは。買ってしまった。

で、この特集、ぜんぜん悪くなかった。
読み終えるなりアマゾンに直行、あれこれ何冊かオーダー入れたくらい、悪くなかった。

それにつけても
オスカルとアンドレが結ばれる場面が「少女マンガ初のベッドシーン」だった、とか
そのベッドシーンに「PTAからクレームの電話が編集部にかかって」きた、とか

初めて知った。へぇぇ。

アンドレ……

だれかが
いっていた

血にはやり
武力にたけることだけが
男らしさではない

心やさしく
あたたかい男性こそが
真に男らしい
たよるにたる男性なのだと
いうことに気づくとき……
たいていの女はもうすでに
年老いてしまっている……と…


これが、そのベッドシーンのちょっと前のオスカルの言葉。
とりあえず Pen の p.93 より。

(ウチには『ベルばら』と『オルフェウスの窓
それから『エースをねらえ』と『七つの黄金境』
ちょっとマイナーだけど『あるまいと せんめんき』の
全巻が揃っているのですが、
この家に引っ越してきた時の荷づくりのまま
20年間ずっと納戸で開かずの段ボール箱になっているので、
これを機に引っ張り出すことを、今ここで決意。
お宝が虫食ってませんように……)

物語りが革命前夜に及ぶとオスカルの死を予感したファンから
「悲痛な電報が送られてきた」というのも
この特集で初めて知った。

確かに「悲痛」だったなぁ。
「オスカルが死んだ」時、高校生だった私にも。

その週の『マーガレット』の発売日、授業が終わるや、
いつも『ベルばら』だけ立ち読みする雑貨屋まで
学校の下の坂道を一散に走ったもの。

オスカルが撃たれた時の絵は、この特集にもあるけど、
それはもう、あの雑貨屋の店先で呆然と立ち尽くしたほどの衝撃だった。

が~ん。私のベルばらはここで終わった……。というほどの。

想定読者層の小・中・高校生だけでなく、
当時働く女性から思わぬ反響があったということも
この特集記事で初めて知った。

男性優位の中で働きつつも、ジェンダーの限界を感じていた女性たちから、貴族という身分を捨ててまでも信念に向かって突き進み、男よりも強く優しく凛々しい女「オスカル」という生き方は、圧倒的な支持を得たのだ。

なるほど。わかるな~。

「女であること」と「人であること」との相克。
「貴族であること」と「貧しい人たちと同じ人間であること」の相克。
「アントワネットらを愛し案じ守りたい思い」と、
「一市民として革命に身を投じたいとの思い」との相克。

その間で苦しみながら、
人として誠実に生きようとするオスカルに恋こがれた私も、
やっぱりずいぶん影響されているよなぁ、と思う。

人として生きる――。

高校生の私にとって、
それはさほど難しいことには思えなかった。

学校という世界は
成績という分かりやすい尺度がモノをいう男女平等なところだったから。

もちろん社会に出たとたんに
世の中から「だまされた」とたちまちにして思い知るわけで、
その気分は今でもずっと続いているし、

改めて気づいてみれば、
リボンの騎士』の主人公も男と女の両方の心を持って生まれてきた。
オルフェウスの窓』の主人公ユリウスも男装の女性。

他にも、このPenの特集に取り上げられている数多くの少女漫画には、
男装の女という設定がけっこう見受けられて、

なんだか切なくなる。

女が「人として生き」ようと思えば、
「男装」するしかない社会は今でも続いている……

……と思った時に頭に浮かんだのは、
何人かの女性政治家とか女性評論家だった。

特に、田中美津ふうに言えば「自分だけが甘い蜜を吸おう」と
自分ほど恵まれていない女や女の傍に追いやられてきた弱いものをみんな裏切って、
男・強者の論理に媚びて「男装」している、
あの人やあの人の顔が――。

そういえば中学生や高校生の時から
「女装」する生き方を決めている女も周りにいたっけなぁ。

パリの高級靴の「メゾン」(なんじゃら?)が云々ってウンチク垂れつつ
そういうの分かっている「女友達」をつれ歩きつつ
16万円の靴をさらっと買っちゃうボク……的な
イヤ~な男たちの世界に招き入れてもらうための
パスポートとして男を選び、捕まえるべく、
田中美津ふうに言えば「メスとして尻尾を振」るのが
賢い女の生き方なんだって、親から叩きこまれた少女たちが――。

でも、こうしてオバサンになって
つくづく思うんだけど、

いちばん悲しいのは、
それが本当は「男装するか女装するか」の単純な二者択一の選択ではなくて、
どんな女も場面に応じて機敏に判断しては両方を適宜うまく使い分けないと
安んじて生きていけないような社会だってこと――。

だから女はそれぞれみんな
その時々の場面とそこにいる男によって(ほとんど自動的になった)適宜の判断で
「男装」しては他の女を裏切り、
「女装」しては自分を裏切って
いつのまにか「男装も女装もしていない自分」って
本来どんな人間だったのかを少しずつ見失っていくんだ。

森岡正博先生の「感じない男」って、
男も「男装」させられて本来の自分を見失わされている、という話なんじゃないかと
まだ読まないまま勝手に想像している)

だから、オスカルはあんなにも清々しかったんだよ。

オスカルは「女装」はもちろん、
男装しながら「男装」もしなかったから――。