「生命学に何ができるか」の「女性と障害者の共闘パラダイム」から「当事者と親の共闘パラダイム」へ 1



冒頭の脳死関連の章も大変面白いのだけれど、
今回はとりあえず、ウーマン・リブと障害者運動との間にあったことを知り、
そのうえで考えてみたいことがあってこの本を手にした事情があるので、
脳死関連はここではパスして、以下もほぼ自分のためのメモとして。

まず最初にメモしておきたいこととして
パーソン論批判。

ちなみに29歳の森岡先生が書いたパーソン論批判についてはこちらに ↓
森岡正博氏(29歳)による「パーソン論の限界」(2009/8/22)

それを読んでspitzibaraが書いたパーソン論批判はこちら ↓
Spitzibaraからパーソン論へのクレーム(2009/8/23)


パーソン論には大きな罠がある。それは、われわれが見失ってはならない人間観や、われわれが引き受けなければならないはずの倫理性というものを、巧妙に隠ぺいしてしまう働きがあるのだ。そのことを明らかにし、パーソン論の発想を批判しなければならない。われわれの課題とは、パーソン論を綿密に展開することにあるのではなく、パーソン論とは別要に考えてゆく可能性を模索することにある。
(p.109-110)


森岡先生は、パーソン論は見かけだけはラディカルだけど
実は保守主義であり、免責、免罪のイデオロギーだ、と看破する。

 すなわち、パーソン論とは、われわれの多くがこの社会で実行しているところの、生命に価値の高低をつける差別的な取り扱いを、あからさまに肯定する理論なのである。それは、社会の現実というものを見据えたうえで、さらにそれを乗り越えていこうという思想ではない。それは、現実社会で行われている差別的な行為に、理論のお墨付きを与える、保守主義的な思想なのだ。(p.110)

 パーソン論にあるのは、自分が悪いことをしないためには、どのように「悪」を定義すればよいかという視点だ。裏返せば、パーソン論には、悪い行いをしてしまった自分が、それを引き受けてどのように生き続ければいいのかという視点がない。悪の「責め」を自らに引き受けながら、いかに人生を生き切ればよいのかという視点がない。
(p.118)

 パーソン論が、われわれの目をふさいで見えなくさせているもの、それが〈揺らぐ私〉のリアリティである。〈揺らぐ私〉のリアリティとは何か。
(p.127)


この〈揺らぐ私〉のリアリティが、
次の章でフェミニズムを経て、さらに次の章で田中美津の「とり乱し」と、
そのとり乱しを通して他者と出会おうとした彼女の思想へと繋がっていく。

第3章のキモは
70年代の優生保護紹介悪反対運動で障害者運動から投げかけられた
女性の選択権と選別的中絶における命の選別の相克の問題について
リブの側でどれほどの思索が深められていったか、というところ。

私がこの本で一番読みたかったのも、そこだった。

田中美津は、
胎児は人間ではない、と理屈で正当化されただけでは済まないものが自分の中にある、
それは何かと問い、

 女は好んで中絶しているのではなく、中絶させられているのだ。それを確認したうえで、田中は、中絶する自分を殺人者としてとらえる。胎児の生命を絶つという事実から目をそらすことなく、その行為を殺人としてとらえる。そのうえで、自分が殺人者とならざるをえないようになっているこの社会の構造と、そしておそらくはこの声明世界の構造の真相を、殺人者の目からとらえ直そうとしているのである。そしてこの問いのさらに背後には、殺人や生命の殺戮なしには生きていけない人間存在とはいったい何なのかという根本的な問いが、ゆるくつながる形で存在していると私は思う。
(p.169)

……中絶は道徳的に悪ではないから許される、というふうには村上(spitzibara注:節子)や田中は考えない。そうではなく、中絶を子殺しだと認めたうえで、そういう子殺しをしてしまう自分を見つめ、自分の生のあり方を見つめ、自分が子殺しをしてしまうのはなぜか、子殺しをさせられてしまうのはなぜかというふうに思索を展開し、みずからの生きる道を定めていく。このような思索のパラダイム転換こそが、七〇年代ウーマン・リブ生命倫理の革新性なのである。
(p.176-7)


村上は、
女の生理にのっとって「衝動的に」子どもを生める日のために、
命の管理としての中絶=子殺しを女自身の手でやるべきだと主張している。
(私はここはまだよく理解できない)

中絶についての森岡先生のスタンスも、
分かったような気がするのだけど微妙で分かり切っていない気もするので
ここではパスしておく。

結局のところ、70年代に障害者運動から問われた、
女性の中絶の権利の中に障害を理由にした中絶の権利も含まれるのか、という問題は
「リブの言説の内部では決着が付かず、八〇年代を経て現在にまで持ち越されている」(p.190)

で、森岡先生が田中美津の思索の先に構想している「生命学にできること」とは
例えば

……単純で一面的でもいいから、どちらかの立場で一刀両断してすっきりしたい、という誘惑に最後まで抵抗すること。これらの難問に直面したときにわれわれを襲う「とり乱し」の状況に、まずは耐えること。そして、自分のなかのとり乱しの内部へと深く入り、なぜ私がこんなにもとり乱しているのかを、私自身の人生と経験を断層検査しながら解体していくこと。
(p.243)

あるいは

「悪ではないもの」の内容を記述して「そのように行動せよ!」と指令する倫理学ではなく、「悪」を背負った者同士が、自らの存在を自己肯定しつつ、どのようにして「悪ではないもの」をめざして歩んでいけるのかを、とり乱しと出会いのプロセスのなかで学び合い、伝達し合っていく営み。……
(p.248)


それは森岡先生自身の中では、以下のような
矛盾する男としての自分の「とり乱し」の自覚と、
その「とり乱し」の苦しさから逃げない覚悟となっている。

……私の中には、女たちの声を聞きそれと出会ってゆきたい自分があると同時に、いままでどおり身近な女たちに苦しみと辛さを押し付けて、男の権力性の上にあぐらをかいたまま、自分の快適さと欲望追求にいそしみたい自分とが同居している……
(p.237)

次のエントリーに続く)