「生命学に何ができるか」の「女性と障害者の共闘パラダイム」から「当事者と親の共闘パラダイム」へ 1
冒頭の脳死関連の章も大変面白いのだけれど、
今回はとりあえず、ウーマン・リブと障害者運動との間にあったことを知り、
そのうえで考えてみたいことがあってこの本を手にした事情があるので、
脳死関連はここではパスして、以下もほぼ自分のためのメモとして。
今回はとりあえず、ウーマン・リブと障害者運動との間にあったことを知り、
そのうえで考えてみたいことがあってこの本を手にした事情があるので、
脳死関連はここではパスして、以下もほぼ自分のためのメモとして。
第3章のキモは
70年代の優生保護紹介悪反対運動で障害者運動から投げかけられた
女性の選択権と選別的中絶における命の選別の相克の問題について
リブの側でどれほどの思索が深められていったか、というところ。
70年代の優生保護紹介悪反対運動で障害者運動から投げかけられた
女性の選択権と選別的中絶における命の選別の相克の問題について
リブの側でどれほどの思索が深められていったか、というところ。
私がこの本で一番読みたかったのも、そこだった。
女は好んで中絶しているのではなく、中絶させられているのだ。それを確認したうえで、田中は、中絶する自分を殺人者としてとらえる。胎児の生命を絶つという事実から目をそらすことなく、その行為を殺人としてとらえる。そのうえで、自分が殺人者とならざるをえないようになっているこの社会の構造と、そしておそらくはこの声明世界の構造の真相を、殺人者の目からとらえ直そうとしているのである。そしてこの問いのさらに背後には、殺人や生命の殺戮なしには生きていけない人間存在とはいったい何なのかという根本的な問いが、ゆるくつながる形で存在していると私は思う。
(p.169)
(p.169)
村上は、
女の生理にのっとって「衝動的に」子どもを生める日のために、
命の管理としての中絶=子殺しを女自身の手でやるべきだと主張している。
(私はここはまだよく理解できない)
女の生理にのっとって「衝動的に」子どもを生める日のために、
命の管理としての中絶=子殺しを女自身の手でやるべきだと主張している。
(私はここはまだよく理解できない)
結局のところ、70年代に障害者運動から問われた、
女性の中絶の権利の中に障害を理由にした中絶の権利も含まれるのか、という問題は
「リブの言説の内部では決着が付かず、八〇年代を経て現在にまで持ち越されている」(p.190)
女性の中絶の権利の中に障害を理由にした中絶の権利も含まれるのか、という問題は
「リブの言説の内部では決着が付かず、八〇年代を経て現在にまで持ち越されている」(p.190)
……単純で一面的でもいいから、どちらかの立場で一刀両断してすっきりしたい、という誘惑に最後まで抵抗すること。これらの難問に直面したときにわれわれを襲う「とり乱し」の状況に、まずは耐えること。そして、自分のなかのとり乱しの内部へと深く入り、なぜ私がこんなにもとり乱しているのかを、私自身の人生と経験を断層検査しながら解体していくこと。
(p.243)
(p.243)
あるいは
「悪ではないもの」の内容を記述して「そのように行動せよ!」と指令する倫理学ではなく、「悪」を背負った者同士が、自らの存在を自己肯定しつつ、どのようにして「悪ではないもの」をめざして歩んでいけるのかを、とり乱しと出会いのプロセスのなかで学び合い、伝達し合っていく営み。……
(p.248)
(p.248)
……私の中には、女たちの声を聞きそれと出会ってゆきたい自分があると同時に、いままでどおり身近な女たちに苦しみと辛さを押し付けて、男の権力性の上にあぐらをかいたまま、自分の快適さと欲望追求にいそしみたい自分とが同居している……
(p.237)
(p.237)
(次のエントリーに続く)