「ネットで学者も当事者もその他くんずほぐれつ異種格闘技戦をやろうよ」ツイート集

ツイッターでの江口先生とspitzibaraのやり取りを追いかけてくださった、なんさんが、
もともとの発端となった「出生後中絶」論文論争を踏まえて、
大変面白い提案をしてくださっています。


ちょびっと書いてみたら、異種格闘技戦論になってしまった。第三者責任とか書いたけど、観客だなぁと思ったらそっちに行っちゃいました。オンラインで読めたり、書けたりするってことは、学者vs素人の異種格闘技戦であり、観客がいるってことだと思ったんです。
「当事者性」vs「学問的正しさ」だったら、異種格闘技戦になるって思った。観客からしたら、どっちも「異論を言うのに躊躇する」ってことでは同等の強さだよなっても思ったから。
オンラインでやるってのは、リングがそこらじゅうにあるってことで、異種格闘技戦になっちゃうってことを踏まえて、相手のルールや作法にどの程度「愛のある理解」が持てるかがポイントになる。このポイントで、観客は「個人としての品格」を判断したりしてね。なんて感じ。
どちらも、これまでの人生賭けて、言うんだろうなって思うし、双方にファンがいて(私です)、下手すりゃ場外で観客同士の場外乱闘も起こるだろう(かつて、やりました)なんてことも思ったの。
「当事者性」VS「学問的・論理的正しさ」が練られて、世論が出来てって、政治政策に導入されるってのが、あるべきルートなのでは?と思う私みたいな観客としては、異種格闘技戦は見るべき試合で起こったほうがいいと思う。
その異種格闘技戦で、学者が「社会的、政治的なことを言っていない」と言うなら「ヘタレ黙ってろ!」って卑怯さになるだろうし、素人が「当事者じゃないと分からないことがある」と言うなら、「チラシの裏にでも書いてろ!」ってなるのが、観客視点だなって思ったのでした。
あ、でもね、ファンも観客も発言したらネットのリングに上がったんだぜ、って感覚も、私は持たなきゃいけないですね。
そいで、格闘技は、痛い。傷だらけになるの承知で、リングに上がるんだよな、なんちゃって♪「当事者」は、痛みを知るが故の強さもあり(私はそういう人のファンになるのだ)「学者(評論家でもいいな)」は、クールな強さのヒールに徹した方が魅力的!


以下が、なんさんの鋭いご提案を受けた、spitzibaraのツイートです。

おおおおお!!
インターネットでその格闘技のリングが用意されているなら、当事者には「当事者でないと分からないこと」をそこで粘り強く言語化していく努力が必要になるだろうし、学者には、相手に対する敬意をもって、誠実な議論をする努力を求めたい、と、まず思いました。
観客の存在を意識することで、ある程度「観客から見て、人間としての品性を疑問視されるような言動はつつしもう」という自己規制がかかると思います。それは相手を問わずブログで絡まれた時に、どんなに醜い感情が自分の中に渦巻いていても、
どんなに怖くて、どんなに今にもふにゃふにゃと屑折れそうになっていても、ギリギリそこで踏み留まって、恐怖や憤りに耐え、なんとか冷静な議論を心がけようと、念じ続ける支えになりました。
その他、「観客の存在」については、nankuru28さんが言われる、「「当事者性」VS「学問的・論理的正しさ」が練られて、世論が出来てって、政治政策に導入されるってのが、あるべきルートなのでは?」ということに、賛成。
そこに2項対立をさらに超えた、いろんな立場が参戦して、多様な格闘技が展開することが望ましい、という共通認識が持てたらいいですよね。

(一部、ツイッターに流したものに訂正を加えました)



【追記】
現在、次の格闘技に出て来いとリングに引きずり出されても
対応できるだけの体力がないので、回復まで、あしからず
関連エントリーをコメント不可にさせていただきました。

特に週末は娘の帰省中とて、なるべく心穏やかに過ごしたく、
ツイッターでのご批判やご指摘も、できれば週明けにしていただけると幸いです。
よろしくお願いいたします。

【追追記】
あー、でも、もちろん、バトルだけが必要なわけじゃない。
正直、無用・不毛のバトルが多すぎる気がするのは悲しい。
なんさんがいわれる「見るべき試合」ってことだと思うのだけど
そういうのは案外、私なんかが知らないところでちゃんと行われているのだろうし。