「生命学に何ができるか」の「女性と障害者の共闘パラダイム」から「当事者と親の共闘パラダイム」へ 2

前のエントリーからの続きです)


第6章の「障害者と『内なる優生思想』」では、
もう一度青い芝の会とリブとの衝突を振り返りつつ、
内なる優生思想問題が掘り下げられていくのだけれど、

青い芝の会の考え方が簡潔に取りまとめられている個所は、例えば以下。

 健全者のエゴイズムは、一般の健常者の心の中にあるだけではない。それは、障害児の世話をしている親の心の中にも存在する。親は、障害児の世話という重い荷物を背中からおろして安心したい、心の平安がほしいと思っている。これこそが、健全者のエゴイズムである。さらに悪いことには、親は、「障害児が死んでしまえば自分が楽になる」という思いを、「障害児が死んでしまうことが障害児にとって幸せになる」とごまかしていくのだ。
 障害者は、社会に広く蔓延している「健全者のエゴイズム」と闘わなければならない。それと同時に、そのようなエゴイズムにまみれた親からの「解放」が必要なのである。彼らが自立生活を始めた一つの理由は、親から解放されることだった。
「青い芝の会」は、社会に向かって訴える。なぜあなたたちは、障害者を不幸と決めつけるのか。障害者は生まれてこなかった方が幸せだと言うのか。障害者はこの社会に存在しない方がいいと考えるのか。……
(p.292)


「青い芝の会」のすごさは、
「健全者幻想」がほかならぬ障害者自身の心の中にもあることに気付いたこと。

……彼らは、健全者たちを仮想的にして、彼らを叩きつぶせばいいとする闘いの欺瞞に気づいてしまったのだ。闘うべき敵は目の前の相手だけではない。闘おうとする自分自身の内部にも、敵は潜んでいる。だから、障害者解放運動は、自己との闘いを不可避的に含まざるを得ない。このきわめて「生命学的」な状況から目を逸らさなかったのが、「青い芝の会」の治世の深さだ。そこから目を逸らさなかったがゆえに、彼らは、後にウーマン・リブの女性たちと、深い次元でのやりとりをすることができ、彼女たちの大きなインパクトを与えたのであろう。
(p.299-300)


リブの側からも重要な呼びかけがされている。
米津知子(このまえ福島菊次郎さんの映画で見た人だ)の発言。

 確かに殺される側の障害者とそして殺す側の女というのはこの世の中で対立させられていると思うし……(spitzibaraによる中略)……
…… 女が殺したのだと言うところで女が糾弾されると言うのは、一面では正当だけれども、でもやっぱり何故女に障害児殺しをさせたのだと言うところで権力に対する恨みとして怒りとしてそれを向けていってほしいと言う気がします。私はそうして行きたいと思っています。
(p.308)


こうしたリブからの応答について、
森岡先生は以下のように書く。

障害者と女性の対立というのは、権力によって仕掛けられた図式であり、表面上の対立を超えて両者は共闘できるという考え方が、ここにあらわれている。
(p.309)

……すなわち、女性と障害者は権力によって対立させられているのであるから、われわれは、われわれをそのような対立に追い込もうとする権力に対して、共に闘わなければならないという「女性と障害者の共闘パラダイム」が成立したのである。
(p.309)


でも、私はこのパラダイムは本当は成立していない、と思う。

なぜなら、

70年代に、
「障害理由での中絶は女性の権利の中でどうなんだ?」という障害者運動からの問いを
リブは正面から受け止め、少なくとも応えようとその痛みを引き受け考えた、
(解決は今だにしていないとしても)と思うのだけれど、

「母親は殺すんじゃない、殺させられているんだ」というリブからの問い返しを
70年代にも障害者運動は受け止めなかったし、今だに受け止めていないのでは?

実は、この疑問こそが、
この本をどうしても読みたいと私が思った理由だった。

ものすごく僭越なのかもしれないけれど、
「アシュリー事件」で以下のように書いた時、
私は米津さんと同じことを呼び掛けたのだと思う。

(これを書いた時の私は、優生保護法改悪反対運動についても、
そこでのリブと障害者運動の対立についても米津知子についても何も知らなかった。
田中美津も名前くらいしか知らなかったけど)

……「親が一番の敵」とは、本当に、逃れようもなくズバリと真実を突いた言葉だ。親はその真実にまず気付かなければならないのだと思う。抑圧する者としての自分を自覚しているべきなのだろうと思う。一方、「親が一番の敵」だという指摘が真実だというのは、「親が敵になってしまう一面が確かにある」ということであって、「全面的に敵だ」ということでも「敵でしかない」ということでもないはずだ。「親が一番の敵だ」と対立的なところから責めて終わるのではなく「親が一番の敵にならざるを得ない社会」にも目を転じることによって、親とも共に考え闘う障害学や障害者運動というものはありえないだろうか。そんなおずおずとした問いかけをしてみないでいられなかった。
 アシュリーの父親やディクマらが描いて見せる「親の愛」vs「障害者運動のイデオロギー」という対立の構図を乗り越えていく方策がどこかにあるとしたら、そこから探し始めることができるのではないか。そして、実はそれは非常に切迫した急務ではないのか……。
拙著「アシュリー事件」(p.253-254)


でも、この呼びかけは
障害者運動からは「障害者運動を批判した」と受け止められて、
「だから障害者は自立生活を目指したんじゃないか」と返されてしまう。

そこに、私が感じるのは、
障害者運動という運動がもつ男性性に対するやりきれなさ、とでも言ったもの。

それは例えば、
重症重複障害のある子どもの親としての立場で
ピーター・シンガーには重症児・者の現実が見えていない」と言っているのに対して、
「おまえにはシンガーが分かっていない」と学者から返されてしまうことに感じる
やりきれなさと、とても似ている。

じゃぁ、私がシンガーの本をもっと読み、シンガーを正しく理解すれば
シンガーに重症児・者の現実が見えるようになる、というのだろうか、というような。

それは単に「もっと勉強して出直してこい」と聞く耳もたず
高いところから門前払いを食らわせているだけではないのか、というような。

そんな中で悶々としながら頭の中でグルグルしてきたことが
「アシュリー事件」の後で田中美津と出会い、それからこの本を読んで
やっと、くっきりとした言葉になってきた気がする。

それが先の疑問。

障害者運動はリブに問題提起をしたけれど、
女性の側からの問い返しと共闘の呼び掛けには、いまだ応えていないのではないか――。

次のエントリーに続く)