「生命学に何ができるか」の「女性と障害者の共闘パラダイム」から「当事者と親の共闘パラダイム」へ 3

前のエントリーの続きです)


私がこの問題にこだわらないでいられないのは、先に拙著からの引用部分に書いたように
アシュリー事件という窓から私が今という時代の世界のありようを見てきたから。
そこに今という時代の底知れない恐ろしさを感じるから。

70年代は中絶の問題を挟んで
障害者は「女性により殺し殺される関係」を問題とし、
リブは「女性と障害者が殺し殺される関係として対立させられる社会」を問題としたけど、

今度は、
生まれる時と死ぬ時の間の問題(端的に言えば介護の問題)を挟んで、
親と障害当事者は対立させられ、その挙句に殺し殺される関係へと
また追い詰められようとしているんじゃないか、と思う。

在宅介護の重症児・者が親に殺される事件が起こると、
「殺した」「殺された」とツイッターやブログが騒がしくなるけれど、

その時に「殺した」一人の親の背後には、
今この時にも寝たきりの重症児者を家で介護している何千人という親たちがいる。
その多くは既に高齢だ。親の方が要介護の障害者になっていることもあり得る。
(たしか去年奈良で寝たきりの娘を「殺した親」は自身が車いすの障害者だった)
必ずしも支援やサービスの整った都会で暮らしている人ばかりではない。

私には、世の中の動きは「地域移行」という名目で、
そういう暮らし方をする親子をさらに増やしていこうとしているように思えてならない。

「殺した」「殺された」と言っている人たちは、
そういう何千組もの、今この時にもどこかでそうして暮らしている親子が
共に人権を侵害されて日々を暮らしているという事態の方には
なぜ、あまり興味がないのだろう。

今この時に一番苦しみ痛んでいる人の声は社会の表には出てこない。
今この時に苦しみのさなかにいる人は社会に向かって声を上げる余裕も気力もないから。

だから介護の問題で言えば、一番過酷な介護を担っている人の声は私たちには届かない。
そういう人の介護の中に抱え込まれてしまっている、
もともと言葉を持たない重症心身「障害者」の声も、
私たちには届いてこない。

でも、だからといって、
そういう親子が今この時に存在していないわけじゃない。

聞こえてくるのは、なぜ
「親は抱え込むからダメだ」という声(これが何を解決する?)ばかりで、
「親はなぜ抱え込まざるを得なくなるのだろう」と問うてみる声ではないのだろう。

障害者運動の側も「親が一番の敵」と
親だけは個人モデルに置き去りにした捉え方から
「なぜ親が一番の敵にならざるを得ないのか」と
親をも社会モデルに含めた捉え方へと、一歩を踏み出してもらえないだろうか

そうでなければ、介護の問題を挟んで対立させられているうちに、
親はそれ以外に自分が生きられないところに追い詰められて「殺させられる」だけではなく、
殺したことを称賛されるところまで連れて行かれてしまう。

あのケイ・ギルダーデールのように。
ギルダーデール事件の詳細は文末にリンク)

「死の自己決定」や「尊厳死」さらに例えば「慈悲殺」といった概念が、
そのツールとして巧妙に利用されていくのだとも思う。

そこでは「自己決定」や「自己選択」という名目で
障害当事者だけでなく親や家族介護者も一緒に「自己責任」の中に廃棄されようとしている。

ギルダーデール事件の時に、
あるME患者さんが書いたように、
「介護者が助けてほしいといっても、その願いは無視されますよ、
でもね、もしも、どうにもできなくなって自殺を手伝うのだったら、
同情をもって迎えてあげますよ」という社会からのメッセージを通じて――。


そのことを、最近ずっと考えている。

考え込んでしまっては、
ミュウを抱いて崖っぷちに追い詰められていくようで、怯えてしまう。

こんなに酷薄な時代だと知りながら、いったい何ができるというのだろう、と
無力感に打ちひしがれ、絶望しそうになる。


森岡先生は、生命学の営みについて、
以下のように書いていた。

……私は何も強制せず、ただ、問いを発し続けるだろう。そうやって、私は、この社会の支配的価値観を担った人々を、世界の一隅から、執拗に揺さぶり続けていくのである。
(p.352)


私には森岡先生やリブの人たちのような「揺さぶ」るほどの力はないけれど、
これまでも殺されてきたし今も殺されている重症障害のある人の一人を娘に持ち、
これまでも殺させられてきたし、今からまさに殺させられようとしている親の一人として、
障害者運動も女からの声、親からの声に一度とり乱してみては、と思うのだから、

例えば、「親は障害児を邪魔だと言って施設に入れたり殺すから敵だ」と言う人は、
その一方で自身の人生では、自分が社会的存在として生きるのに邪魔だから
子育ても年寄りの介護も身近な誰か(例えば背負わせやすい女)に背負わせてきた、
または、状況によっては背負わせる可能性があるのではないか、と
自分をまず問うてみてはどうか? と思うのだから、

そう思うなら、私はそう思うと言うしかないんだな、と
この本を読みながら、思った。

そんなふうに、70年代の米津さんと同じことを
私は私自身の言葉で、呼びかけていくしかないのだな、と思った。

「私はそうして行きたいと思っています」という
米津さんの言葉が、すがしい。

私も、そうして行きたいと思います。