Ouellette「生命倫理と障害」第5章: Egan夫妻のケース

第5章「生殖年齢」でOuelletteが取り上げているのは
生殖補助医療をめぐる架空のケース。

架空のケースにしたのは、
生殖補助医療に伴う深刻な倫理問題をここでは一旦置いて
障害者の子育て能力を巡る医療サイドの偏見に議論を焦点化するため。

Bob&Julie Egan夫妻は大学で知り合って卒業後に結婚。

Julieは未熟児網膜症で目が見えない。
学生時代から杖と盲導犬を使って自立生活を送る優秀な学生だったが、
当時から時々うつ病の症状が悪化すると第三世代といわれる抗ウツ薬を飲んでいた。

何年かの結婚生活の後に子どもを作ろうとしたがかなわず、
生殖補助クリニックの予約を取ったところでBobが事故で脊損に。
何カ月かの治療とリハビリを経て電動車いすと改造車を使いこなせるようになる。

セックスは可能で精子も作られているが
障害のために射精ができないので、

新たな暮らし方が定着してきたところで
2人は改めて生殖補助医療を受けようと希望し、
かつてのクリニックを受診する。

しかし、数日後、2人はクリニックの医師から治療を断られてしまう。

その理由は、2人の障害を考えると、
生まれてくる子どもを安全に育てられると思えない、というものだった。

医師は既に弁護士に相談しており、
弁護士は以下の理由で断っても違法ではないと判断した。

① 医師と患者の関係は自発的かつ個人的なもので
法的に禁じられた理由以外であれば、医師には
その関係を選ばない自己決定権が認められている、という。

② 「直接的脅威」ディフェンスが当てはまる。
他者の健康や安全が脅かされる場合には
医師にADA違反の行為を認められている。


ウ―レットによれば、
この架空のケースを巡っては、生命倫理学も障害者運動も、
障害を理由に人工授精を認めないのは倫理的にも法的にも問題がある、
という基本認識では一致している、という。

しかし、問題は医療現場に根強い「障害者は良い親になれない」との偏見で、
この点が障害者運動からの強い批判にさらされているところ。

一つには、どのカップルに人工授精を認めるかの判断基準が全く統一されておらず、
それぞれの医師によって主観的に決められている現状がある。

そこに障害のある人は十分な子育て能力を持たないとの偏見が入り込んでいる。

その一方で、医療職にも障害者差別を禁じたADAには
例外規定や曖昧な表現があって、そこから障害者への別扱いを容認する余地が生まれ、
実際に医療職がADA違反を問われることはほとんどない。

そのため、医療における障害者差別が
医師の自己決定権の範囲に置かれてしまっているのが実情で、

生殖補助医療学会の倫理学会はガイドラインで慎重な判断を呼び掛けてはいるが
生殖補助医療ではその他の領域以上に法や倫理規定への遵守意識が希薄。

実際、法的にも、その偏見は根強く、
障害者は良い親になれないとの偏見によって親権を奪われるケースは多い。

カリフォルニア州のWilliam Carneyの裁判では
トライアル裁判所の判事は「身障のため、子どもにしてやれるのは
お話しして勉強を教えることくらい。どこかへ連れて行ったり、
一緒に野球や釣りをしてくれる親の方が子どもには良い」と述べたが、

最高裁で障害者運動の側は
子育ては身体的なケア以上のものだと親子の関係を広く捉えて
「子育ての本質は、人格形成期を通じて、それ以後にも、子どもに
親として倫理的、情緒的、知的指導を行うこと」と反論した。

障害者運動が、障害者にも、子育て能力を巡る予見なしに
障害のない人と同じ体外受精へのアクセスが保証されるべきだと主張してきた一方、

生命倫理は同じ懸念をもちつつ、
子どもと不妊の親と医療職それぞれの利益をどのように考えるかを議論してきた。

生殖補助医療学会の倫理委の結論は、大まかに言えば
障害者の子育て能力について根拠のない偏見や疑いに基づいての治療拒否を不可とし、
根拠を持って判断するなら治療拒否は医師の自己決定権のうち、というもの。

根拠が確かな理由の例としては
「未制御の精神病、子供または配偶者への虐待、薬物濫用」

障害者サイドは、
仮に障害のために親として十分に機能することができないとしても、
家族や友人、その他の支援ネットワークによって補うことは可能だと訴えている。

              ―――――

ウ―レットの考察。

生命倫理はなぜ先端技術と終末期医療にばかり興味を持って、
その途上での障害者のリプロダクティブ・ヘルスや子育てを議論しないのか。

障害のある女性が上がりにくい診察台の問題は対応するつもりがあれば解決も可能なのに
それがいつまでも放置されることの背景に、この生命倫理のプライオリティの問題がある。

生命倫理が障害者との対話を始めることによって、
これらのバリアを排除することを通じて両者の信頼関係を築いてはどうか。

その他の問題に比べれば、
障害者への強制不妊の問題では両者は一致している点が多いのも、
終末期医療やアシュリー療法に比べれば、強制不妊については
両者とも長らく議論し、その中から相手側への理解が進んできたからであろう。

医療サイドに障害者への偏見があるなら、
医療の現場に足がかりのある臨床倫理学者にこそ
医学教育や研修内容に障害者問題を含める工夫をし、
医学教育に障害者問題の専門家を連れてくるなど
その偏見を解く役割があるはずだ。

そして、
ただ診察台に上がれないというだけで
婦人科の検診を拒まれてきた障害のある女性たちの声に耳を傾け、
まずはこうした解決可能な小さな問題から一緒に取り組みつつ、
両者の対話を進め、信頼関係を築いていってはどうか。

I know how powerfully my interactions and the friendships I’ve developed with people with disabilities have changed my understanding of disability over the course of this project.

この本を書くに当たって障害のある人たちとの間に作ってきた相互関係と友人関係が、私の障害に対する理解をどれほど強力に変えてきたか、私は知っている。
(p.234)