Ouelletteの「生命倫理と障害」:G事件と“無益な治療”論について 2

前のエントリーの続きです)

Gonzales事件の概要は非常に詳しくまとめられているので、
いずれ事実関係の整理をしたいとは思いますが、
これまでに以下のエントリーを書いているので
ここでは事件の詳細は省略します。



まずG事件に関する「障害者コミュニティの見解」

障害者がG事件で問題にした点として挙げられているのは

・親の決定権を侵害し医師に「神のような地位」を与えた。
・無益性概念に一貫性がない。
・法的検討が行われていない。

“無益な治療”論について問題にされているのは主として以下の3つ。

・医師の偏見
・カネが判断要因となっていること
・法の下で保障された平等な保護に違反する

医療の中に障害者に対するバイアスがあるという点は
障害学者のJames Werth , Carol Gill, ハーバード大法学者のMartha Fieldsなどが指摘している。

バイアスとカネの両方にまつわる典型例として
オレゴン州が1990年代初めに導入を試みて
保健省の障害者差別に当たりADA違反との指摘を受けて見送られた
メディケイドの配給制度Oregon Planがある。
(これについては別途エントリーでまとめてみたいと思います)

特にテキサスの無益な治療法TADAについては、
TADAが「不可逆」とする条件が以下の3つであることが問題視される。
(訳語はさほど吟味したものではありませんのでご了承ください)

a condition, injury, or illness:
(A) that may be treated but is never cured or eliminated.
(B) that leaves a person unable to care for or make decisions for the person’s own self; and
(C) that, without life-sustaining treatment provided in accordance with the prevailing standard of medical care, is fatal.

以下の状態、怪我、または病気
(A) 治療は可能かもしれないが、治癒することも取り除くこともできない。
(B) 身辺自立できない、または自己決定できない状態のままになり、かつ
(C) 一般的医療のスタンダードの範囲で提供される生命維持治療がなければ死ぬことになる。


視覚障害や知的障害などAには当てはまってもBとCには当てはまらない障害もあるが
一方で人工呼吸器依存の四肢まひ者や、経管栄養の障害者は全てに当てはまる可能性があり、
QOL尺度そのものが医療のバイアスだという主張。

しかし、この部分の最後にOulletteが指摘しているのは
仮にMiller事件に適用されたとすればともかくも
障害ではなくターミナルであることが問題だったGonzales事件では
TADAへのこうした批判は当たらない、という点。

最後には、
死にゆく乳児の治療がどうあるべきか、その問題でカネをどう考えるかについては
生命倫理学者も悩みながら最善の答えを見つけようと鋭意議論しているところだ、と。
(ね。「ちょっと、アンタどういうつもりよ」と思いますよね、こういう書き方をされると)

次にG事件に関する「生命倫理学の見解」

こちらは、無益性概念をめぐる議論から解説が始まる。

医師には無益な治療を提供しなければならない義務はないが
“無益な治療”概念の有効性については生命倫理学者の間でも議論されている。

これまでに試みられた定義は3つで、

① 狭義の無益性の定義

A proposed treatment is futile only when “incapable of producing the desired physiologic effect in a patient.
狙った通りの効果を患者に生理的に生じされることができなければ、その治療は無益。

ニューヨークのTask Force on Life and Lawなどが
QOL指標などの主観が交じることを避けるために採用した。

②質的無益性

生理学的な効果のみでなく、
一人の人としての患者が利益を得て、それを享受できなければ無益、とするもの。

この個所で、すーんごく興味深い、まさにショーチョ―的だぁ……と思ったことは、
その例として挙げられている、Crossleyという人の論文からの引用で、

a gastrostomy tube for an elderly and severely demented woman.
高齢で重度の認知症の女性への胃ろう。

「女性」???????????????
じいさんとばあさんじゃ同じ状態でも無益性が異なるのね。無意識に????????

③量的無益性

治療すれば利益はあるんだけれども、その可能性が小さすぎて無益と考えられるもの。
例えば骨髄移植以外に助かる道がないがん患者がいたとして、
移植が成功して助かる確率が1000分の1だという場合。

Truogが11月10日の講演で引用していたSchneiderman(とJecker)の
「過去100例で効果がなかったら無益」という基準にOulletteも
質的無益性定義の試みとして言及している。

しかし、いずれの定義も病院間、医師間で無益性が一貫するには寄与せず、
議論の流れは、生命倫理委員会など権力の乱用を防ぎ患者を守る手続き重視へと移る。
G事件で使われたTADAも、このセーフガード精神による多層手続きモデルである。
(ね。こんなの言われたら「おい……」と思いますよね)

ただTADAは何が「医学的に不適切」かを定義していないし、
倫理委の検討に基準を定めているわけでもない。

Art Caplanが言っているように、
無益性概念の有用性議論は結局のところ
「医療職のインテグリティ」と「患者の自己決定権」の対立であり、

TADAは「患者の自己決定権」よりも「医療職のインテグリティ」を採用し

Lainie RossはEmilioの母親の決定権を支持する。
(この人は救済者兄弟でもAshley事件でも親の決定権論・家族の利益勘案論者です
それぞれエントリーはありますが、リンクはあしからず省略)

Truogは、無益な治療論そのものは正当化できるとしても
G事件での倫理委の判断は間違いだったと批判。

その内容は当ブログで批判論文を読んだ通りなので、こちらを↓
TruogのGonzales事件批判(2008/7/30)省略。

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ここまで読んで、私が一番不満だったのは、
生命倫理学者の言い分や議論にだけウ―レットが
「背景」や「経過」や「状況」をカウントしていて
障害者コミュニティの言い分にはそれらがカウントされていないこと。

これは誰かと誰かの言い合いになったら、よくあることで、
自分のしたことについては「状況や経緯から止むを得なかった」と状況判断が伴うけど、
相手のすることについては「そういう人だから」と相手の人格に帰してしまいがち……
ということと重ねると、やっぱウ―レットって生命倫理学者の方に自己同視してるじゃん?

……と思うわけです。どうしても。

でも、これ、振り返って考えるに、たぶん作戦。だとしたら、成功しているんじゃないだろうか。

生命倫理学のサイド寄りの視点で書かれることで生命倫理側にこの本が読まれやすくなるだろうし、
同時に、障害者運動の主張がどのように眺められているかが描かれているとも言える。

そして「考察」でウ―レットが主張するのは、このシリーズの最初のエントリーで引用したように
生命倫理学はこうした皮相的な捉え方をやめて「障害者の言葉ヅラの背景にあるものに思いを致せ」。

それだけじゃない。
ウ―レットは「考察」で、さらに、ばしっと実にブラボーな提言を次々と繰り出していく。

大きく要点だけ挙げると、

・医療の中に障害者に対するバイアスがあることは歴史的事実である
生命倫理はその事実を研究し、エビデンスをきちんと出せ。
・障害者と会話を始め、和解に向けて信頼構築の努力をせよ。
・そのためにも机上の思考実験でトンデモな主張をするシンガーとの間に、距離とれ。
・医療改革と資源の平等が問題になっている時だけに“無益な治療”の哲学論議を棚上げせよ。
・医療の意思決定をめぐる議論に障害者を参加させよ。

次のエントリーで「考察」を。