Ouelletteの「生命倫理と障害」:G事件と“無益な治療”論について  1/3

米国の法学者、アリシア・ウ―レット(Alicia Ouellette)が6月に出した
“BIOETHICS AND DISABILITY  Toward a Disability-Conscious Bioethics”について
これまで以下の4つのエントリーを書いてきました。

(いったんQと思いこんだら何度見てもQとしか見えず、まだ訂正できていないので
大半のエントリーがQuelletteのままになっていますが、正しくはOulletteです)



8月に概要を書いたところで、馴染みがあることだし、次は
「乳幼児期」のGonzales事件と「児童期」のAshley事件を一気に、と意気込んだのですが、
前者のG事件の個所を途中まで読んだところで中断し、そのままになっていました。

Oulletteの書き方は成長段階ごとに2つ程度の事件を取り上げ、
それぞれについて「概要」「障害者コミュニティの見解」「生命倫理学の見解」を取りまとめた上で
「考察」する、という構成を繰り返しています。

「乳幼児期」は既に読んだMiller事件とGonzales事件の2つ。
私は後者のG事件の2つ目のセクション「障害者コミュニティの見解」を
ほぼ読み終わったところで中断した格好でした。

理由は主に2つあって、1つには
ちょうど拙著「アシュリー事件」が最終ゲラの段階に差し掛かり、
ここにきて2つの事件について加筆訂正したいことが出てくると時間的に苦しいし、
十分な吟味もできないジレンマが出てくるので、
拙著が出た後に読む方がいいのでは、と考えたこと。

でも、それは、まぁ後付けの言い訳みたいな理由で、本当は、

Gonzales事件への障害者運動からの抗議について、
倫理学者らが『過激で敵意に満ちている』とか『手がつけられない out of control』と
表現するほど激烈なものだった、と感情的な批判でしかないかのように書き、

Miller事件では救命を拒んだ親の決定権を否定していながら
Gonzales事件では治療を求める母親の決定権を尊重しろと訴えるのは
親の決定権について障害者らの立場には一貫性がないと指摘し、

障害者が命の神聖を原理的に主張しているとでも言いたそうなトーンがある、などに

ほとんど「あいた口がふさがらない」ほど呆れ、大いに失望し、
おいおい……と途中で止まって、先に「生命倫理学の見解」の方をチラ見してみると、
そちらは倫理学者らがいかに誠心誠意、患者の利益を追求してきたか、
テキサスの「無益な治療」法(テキサス事前指示法TADA)にどのような効能があるか
などなどが強調されているものだから、いよいよ不愉快が募って、

Ashley事件での格調高い批判論文の感激から期待が高かっただけに、
はたまた、その期待と喜びでピョンピョンする思いで刊行からすぐさまオーダーし
Spitzibara的には1冊の本にあり得ないカネ払って買っちまっただけに、

なんだよ。ウ―レットも所詮はアカデミックな世界の住民でしかなかったのかよ……と
「手ひどく裏切られたもんだなぁ」の敗残感が大きかったんであります。

それで、読む気力をそがれたまま机の横に放り投げてあった。

で、いつのまにやら数カ月が経ち――
一昨日、Truogの「治療の無益性」講演を聞いて、
ああ、ここでもGonzales事件は出てくるな、やっぱりこの事件は
テキサス「無益な治療」法の代名詞みたいな事件だなぁ、と再認識したところで、
G事件と言えば、そういえばウ―レット……と、思い出した。

まぁ、もう一度だけ、もうちょっとだけ読んでみるべ……と
昨日 BIOETHICS AND DISABILITYを手に取った。そして、
ゴンザレス事件のパートの最初に戻り、31ページ分を一気に読んだ。

ウ―レットさん、ごめんなさいっ。
spitzibaraが浅はかでした。
あなたはやっぱり素晴らしい。
今からニューヨークに出掛けて、
いっそ飛びついてしまいたいくらい大好きだい。

spitzibaraは泣きましたね。

129ページのあたりから赤線つぎつぎ引きながら
spitzibaraは文字通り、涙を流しておりました。
134、135と、ページもspitzbaraの目鼻もまっかっかになりました。

ありがとう。この本を書いてくれて、本当にありがとう。

……と、こんな芝居がかかって長ったらしく、読む方にはさぞ迷惑な前置きを、
どうしても書かないでいられない気分になったのは、

例えば、129ページの以下の数行――。

The problem is, except in the courts, they are not heard or taken seriously. So they shout and protest to get attention in the press. I would hope that even my philosophy-trained colleague could look beyond the form of the message to ask why in the world are the people so angry. In fact, I would argue that it is incumbent upon bioethicists to ask that question and then to act to address it. The fact that members of a historically disenfranchised and abused population must shout to be heard is reason for alarm, not disdain. Respectful debate is possible only when all sides are heard and all concerns acknowledged.

(障害者が敵対的だ攻撃的だと見下し、あんなの相手に議論なんかできるかとばかりに生命倫理学者は切って捨てるけれど)、法廷でもなければ、障害者の言うことには誰も耳を傾けないし、真面目に取り上げもしない。だから障害者はメディアで取り上げてもらうために抗議の大声をはりあげるんじゃないの。私の身近にいる同僚にしたところで仮にも哲学をかじってきたというならよ、言っていることの上っ面だけを見て終わるんじゃなくて、そもそもこの人たちがどうしてこんなに怒っているのかを考えてみたらどうなのよ。
実際、生命倫理学者にはそう問うてみる義務があるはずだし、問えばその問題に対処すべく行動する義務だって出てくるはずだ、と私は言いたい。歴史的にもずっと阻害され虐待されてきた人たちが社会に届く声を上げようと思えば、大声で叫ぶ以外になにができるというの。
それで、なんで、障害者があんたら生命倫理学者に見下され侮蔑されなければいけないわけ? そこにこそ問題を感じるのがまっとうな生命倫理学者というものでしょう。
誠実な議論が可能になるのは、参加するみんなの声がお互いに届き、関係者みんなが十分に尊重されて後のことですよ。


上記の日本語訳は英文のままではもちろんなく、
いわば攻撃的かつ下品なspitzibaraに乗り移られたウ―レット。
原文はもっと格調高く上品です。

最後には、この本の主題とも思える、このような主張へと展開していく
(実は133ページからは、さらなる“ブラボー”があと2つもある!)
Gonzales事件に関するセクションについて、

次のエントリーに続きます。


【OulletteのAshley事件関連論文】
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文(09)「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」 1: 概要
(論文については、それぞれ、ここから4つエントリーのシリーズで)