日本の終末期医療めぐり、またも「欧米では」論法

今朝の朝日新聞の声欄のトップに
京都の医師の方の「人工栄養 国民的議論が必要」というタイトルの投稿があった。

5日に報じられた厚労省研究班の人工栄養の指針案をめぐって、
出てくるだろうと予想された通りの内容なのだけれど、
こういう話になるとイヤになるほど繰り返されるように、
やっぱり最後が、こういう言葉で締めくくられている。

「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどないという」

「ないという」んだから、あくまでも伝聞。
でも、伝聞のままに、そこには「欧米で起こっていることは日本がお手本とすべきモデル」という意識が
読者との間に共有されているとの前提があって、著者はこれを書いている。

こういうのを読むと、そこにこだわってしまうのも
いつものことなんだけれど、

昨日エントリーにしたTruogの講演
70年代、80年代に議論されたのは「望まない治療を拒否する患者の権利」だったが、
その後90年代以降、今度は「治療を求める患者の権利」にシフトした、との指摘を
この耳で聞いた直後だけに、

今朝はなおのこと、そのことにこだわってしまった。

米国では、
「尊厳を損なう過剰医療はいらない」と患者が自己決定を求めて闘った時代は終わり、
今は「死ぬ」という一方にしか自己決定権が認められない時代、むしろ
「一方的に治療を引き上げるな」「医療を受けさせろ」と闘わなければならない時代に入っている――。

テキサスには病院内倫理委の判断だけで
一方的に生命維持停止の権限を病院や医師に認める法律ができていたり、

障害児・者に対する治療に限って「医療資源の公平な分配」の観点から疑問視する声や、
障害児保護の必要を否定し「大人と同じ基準にしないのは年齢差別」とまで言って
子どもの意識状態を基準に栄養と水分停止を正当化する学会ガイドラインが出ていたり、

医療費を支払えない移民に対する一方的な医療中止事件が多発していたり、

英国では
「さっさと脱水・死ぬまで鎮静」と終末期プロトコル機械的に運用されたり、
本人にも家族にも知らせずに一方的にDNR指定にするケースが問題化していたり、
認知症患者には家族や社会の負担にならないよう死ぬ義務がある」という声が
議会や医学・医療倫理学論文で出ていたり、

それらと並行して、欧米では、
自殺幇助や積極的安楽死の容認へと流れが急速に向かっていたり、
そこでは「街角の高齢者向け安楽死ブース」や「臓器移植安楽死」までが提言され始めて、

「死の自己決定権」や「無益な治療」概念は
どんどん臓器不足解消という問題に接近し繋がろうとしている。

(ここに書いたことには全てリンク可能なエントリーがありますが、
一か所の記述にリンク候補が複数ある場合も多く、
イチイチ貼るのは手間が大きいので省略しました)

それに、これらは、この京都の医師が書いているような患者の尊厳の問題としてではなく
露骨なコスト削減と高齢者・障害者・重病者・貧者の切り捨て策として、
そして、恐らくはその背景に弱者の人体資源化の可能性をも含みながら論じられている。

そういう大きな流れの中に、
「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどない」を置いてみるのと、

そういうことを埒外に置いたまま、
なんとなく「我が国よりも進んでいる欧米では」という雰囲気の中で
「欧米では重度認知症患者に胃ろうを造設することはほとんどない」を置いてみるのとでは、

その意味は全然違ってくるんじゃないだろうか。

(あ、でも、よく読み返してみたら、
この医師が言っている「判断」は家族と医療職の判断のことであって、
患者の自己決定はまるで問題にしていないと思われるところが
「欧米」の議論と土台の筋が違って、また興味深い……とも言える?

それに、ちゃんと脳死概念の定着に時間がかかったことが引き合いに出されているのも、
考えてみれば印象的というか象徴的というか……)


それにしても、これもいつも思うことだけど、メジャーなところで
「欧米では」と世論の「我々後進国」コンプレックスを煽る人が説いているのは、
以下に見るように、臓器移植、生殖補助医療、ワクチン、終末期医療……


つまりは「科学とテクノで簡単解決」文化とそこに繋がる利権や、
その背景にある能力至上主義、操作主義に沿った方向で――。


欧米で子育て支援や介護者支援がどれだけ重要視され、制度化されているかが
同じようなメジャーな場所で同じように「追いつけ」ニュアンスで語られることは少ないし、

認知症患者をはじめ高齢者への向精神薬の過剰投与が
欧米では問題化されているのに何故か日本では問題視されないことを指摘する人も
最近少しずつ増えては来ているけど、やっぱり主流ではないし、

ビッグ・ファーマと研究者・医師・専門雑誌の金銭関係のディスクロージャー
米国では多くの呆れるほど酷いスキャンダルの挙句に法制化されたから
日本でも透明性を保障する法整備が必要だという議論も出ないし、

よもや「米国では、パラトランジット制度まで法的に整備して
障害者の交通アクセスを保障している」という話が
「我々後進国としては、それをモデルに追いつかなければ」というニュアンスで
語られることは、まず、ない。

私たち、煽られる側が気付かないといけない本当の問題は、
その不均衡にこそ、あるんじゃないのかなぁ。

           ―――――――

そういえば昨日聞いた講演でTruogが面白いことを言っていた。

彼が無益だと分かっていながら決断した心肺蘇生の実施をめぐって、
患者本人に無益な苦しみを与えたという批判があるが、それは当たらない、
なぜなら患者本人は既に意識も感覚もなく、苦痛を感じることができない状態だった、と
反論した際に、

患者の苦しみについて医師の言うことには一貫性がないことを
Truogはジョークにして見せた(と思う)。

治療を停止したければ医師は平気で心痛を装って、
「ご本人が苦しんでおられますから、ラクにして差し上げましょう」などと
患者が感じてもいない苦痛をダシに使うのだ、と(いう意味のジョークだったと思う)。