Ouelletteの「生命倫理と障害」:G事件と“無益な治療”論について 3

前のエントリーの続きです)

「考察」の冒頭、ウ―レットが引いてくるのは
Philip Ferguson と Adrienne Asch の以下の言葉。

障害のある子どもが生まれるときに起こる最も重大なことは、子どもが生まれるということ。
ある夫婦が障害のある子どもの親になる時に起こる最も重大なことは、ある夫婦が親になるということ。

これを引きながら、ウ―レットは
MillerやGonzalesやその他の重病の乳児のケースで一番切実に感じるのは
親にとって、これは単に言論や議論の問題ではなく
リアルな経験であり痛みなのだということだ、と語る。

そして、リアルな体験に「これだけが正解」などないのだ、と。

ことほどさように、障害者らは個々のケースのリアリティの中で、
原理ではなく文脈でものを考えているのであり、
そのために時に矛盾しているように見えるだけなのだ、

親の決定権を事件によって認めなかったり支持したり、
立場を都合よく使い分けているから議論にならないと倫理学者は言うが、
彼らの立場は命の尊重という点で一致しているのだ、と。

そして、

……The central claim of disability experts is that misperceptions about life with disability have a detrimental effect on people with disabilities, particularly in the medical setting, where people with disabilities―especially babies with disabilities―have been isolated, victimized, and left to die based on incorrect assumptions about the potential for quality of life. The claim is historically accurate, and its currency is supported by empirical data and compelling theoretical analysis.

障害者問題の専門家が言っていることの核心とは、障害のある生についての誤った認識は、特に医療の場では障害者に悪影響を及ぼす、ということ。医療においては障害のある新生児が、将来のQOLについての不正確な予測に基づいて疎外され、ひどい扱いを受け、死ぬに任せて放置されているのだから。彼らのこの主張は歴史から見て正しいし、データや理論的分析によっても証明されている。

だから、医療の文化の中に根深い障害バイアスのエビデンスをきっちり出していく研究を
医療の意思決定について考えようとする人はやるべきだし、

特に、良い倫理には良い事実が必要だと主張している生命倫理学者こそ、やったらどうか。
(Norman Fostはその一人です。詭弁としての「良い倫理には(都合の)良い事実」)

John Lantos が指摘しているように、
理論的に医療判断を考えることと
苦しんでいる生身の乳児を目の前に考えることの間には距離があり、
現実には一方的な決定はほとんど行われていないし、
たいていの意思決定は粘り強い話し合いを経てコンセンサスによって行われている。

それならば、障害者問題の専門家を病院での意思決定や議論に含めることによって
無茶な一方的決定はそれほど行われないことや、実際に苦しむ子どもの姿や
現場の医療職が判断をめぐって苦悩する姿を見て、
治療停止の全てが障害者差別ではないことを彼らも理解するだろう、と
ウ―レットは提言する。

大きな“ブラボー” はこの後。133ページ。

Tom Kochパーソン論(とは書いてないけど)批判を引用した後、
ウ―レットは、ばんっ、と書くんですね。

そもそも生命倫理ピーター・シンガー問題を抱えている」のがいけない、と。
特に哲学者を中心に生命倫理学者はきちんとシンガーを糾弾せよ、と。

キミたちの親だってキミたちが死んでいた方が幸せだったんだよ、みたいなことを言われて、
そういう相手に面と向かって反撃を挑むのは障害者にとっては難儀なことなのだから

生命倫理学者が繰り返し、大声で、力を込めて」シンガーを批判し、
生命倫理学者の中の哲学者はシンガーの議論を取り上げて、
どこが間違っているかをきちんと説くべきだ」

そうした努力によって生命倫理
シンガーが展開するアカデミックな思考実験から距離をとらなければ
障害当事者らとの生産的な議論は始まらない、のだから、と。

で、ここからの次なる大きな“ブラボー”は

医療制度改革と公平な医療資源の分配の必要に直面している時だけに、
この際“無益な治療”をめぐる哲学論議は凍結しよう、との提言。

そして障害当事者との会話を始めよう、と。

会話は信頼がなければ始まらない。
和解を目指した話しあい(mediation)とコンセンサスを通じて医療争議を解決できるよう、
不安を抱えた弱者である障害者と医療の文化との間に
互いの信頼関係を構築しなければ。

全ての利益関係者がその会話に加わり、
全てのエビデンスが検討されるように。

この章の最後は

……But even where this is conflict, it should be apparent that disability experts have something to teach parents and medical professionals about the potential for quality of life of many people with many kinds of disabilities. If nothing else, there would be value in considering how to make those conversations a regular part of care in the NICU.

衝突があるにせよ、親と医療職は、障害者問題の専門家から様々な障害を持つ様々な人々のQOLの可能性について学べるものがあるはずだ。なによりも、NICUにおける通常のケアの中に、こうした会話を組みこんでいく方策を考えることに価値があるのではなかろうか。


すなわちウ―レットは、
生命倫理学者に届く学者の言葉で、
繰り返し、これを言っているんじゃないか、と思う。

Nothing about us without us――。