親にはしてやれないこと

重い障害のある子どもを持つと、
親は子どものためにできる限りのことをしてやろうと努めます。

親ならではこその細やかな配慮や繊細なケアをし、
不幸にも我が子が背負ってしまった障害の影響を
なんとか最小限に食い止めてやろうと
親は必死の努力をするのです。

障害を負ったがゆえに
我が子には得ることができないものばかりだというのでは辛いから、
親が与えてやれるものは力の及ぶ限り親の力で与えてやりたいし、
失ったものは親の力でできる限り取り戻してやりたい
……というのが、その心なのだと思います。

その思いや努力そのものが
親ならではの愛情なのです。

しかし子どもの成長と共に、
どんなに努力しても
どんなに深い愛情をもってしても
親が子にしてやれないことが出てきます。

障害によっては重度化を食い止めるのにはどうしても限界があるとか、
親の年齢と共に肉体的に精神的に限界が来る介護負担の問題もあるけれど、

子が幼児期から子ども時代へ、子ども時代から青年期へと成長するにつれ、
親にはどうしても与えてやれなくなるものの1つは、
「他者と関わるダイナミックな世界」ではないかと私は思うのです。

重い障害を持った子どもを身近に何人も見てきましたが、
「親が遊んであげる」、「親に遊んでもらう」ということだけで心が弾むほど楽しいのは
どんなに重い障害を持った子どもでも、やはり子ども時代までのように思えます。

幼い時期にたっぷりと親の愛情を注がれて
他者を信頼するということを肌に知って成長すれば、
親とだけの閉塞した小さな世界から
他者とのダイナミックなやり取りの世界へと出て行く準備が
子どもにはできているし、それは障害のある子どもでも同じだと私は思う。

(評価のツールとしての“発達”でも“発達段階”でもなく、
人としての“成長”は、 どんなに重い障害があっても
その子その子なりに遂げていくものだと私は考えているので。)

だからこそ、重い障害を持った子どもたちも
少しずつ慣れれば保育所や幼稚園や通園施設などで
他の子どもたちや先生たちとの時間を楽しめるようにもなるし、
親から離れて養護学校デイケアで過ごすこともできるようになるのでしょう。

重い障害があると、
親は「自分のケアでなければ、この子は生きていけない」とか
「自分のケアでなければ、この子は幸せになれない」と
いちずに思い込んでしまいがちですが、

案外に親が勇気をもって手を引き、身を引いて子を託してみたら、
どんなに重い障害を持った子どもの中にも
他者とのかかわりを持ち、それを楽しむ力があることに
親自身が一番驚かされるもののようです。

子は、親が思っているよりも、はるかに大きな力を持っている。
それは障害がある子どもでも、ない子どもでも実は同じなのではないでしょうか。

親が「自分でなければ」と子を抱え込んでいる限り、
子はむしろ自分の持つ力を発揮することができないでいるのかもしれない。

「いろんな他人と関わる広い世界のダイナミズム」だけは
どんなに頑張っても、親が自分で直接子どもに与えてやることはできません。

むしろ、それは、親が敢えて手を引き、身を引いて
他者に子どもを託すことによってしか子に与えてやることのできない広い世界であり、
また生きていることの手応えなのではないでしょうか。

どんなに重い障害を持った子どもであっても、
もしかしたら障害のある子どもだからこそ、
親はむしろ、ある年齢からは少しずつ手を引いて
子を他者に託すことを始めなければならないのではないでしょうか。

他ならぬ我が子が暮らす世界が
親兄弟とだけの小さく閉塞した世界ではなく、
いろんな人と関わるダイナミックな世界であるために。

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Diekema医師は
「Ashleyに必要なのは家族との小さな世界」と言い、
「Ashleyには、人と意味のあるかかわりを持つことなど生涯できない」と言い、

成長抑制も子宮摘出や乳房芽の切除も一般の障害児にやってはならないが、
Ashleyのような重症児にはやってもかまわないことの根拠がそこにあると主張しました。

子どもたちの可能性や世界を広げるアドボケイトであるべき小ども病院の医師が
こんな、子どもの可能性を乱暴にぶった切って投げ捨てるような発言をする──。

そうしたDiekema医師の姿勢は、もっと批判されるべきだと私は思う。
それが、ただ自己保身のために弄した言辞であるならばなおのこと。