重症児の親による成長抑制批判の落とし穴

前のエントリーで取り上げたClaire Royさんの成長抑制批判を大きな共感を持って読み、
しかしAshleyの親への批判が最後に向かってしまう方向性に2点ばかり危惧を覚えた。

まず、
「重症児は多くのことを教えてくれる存在なのだ」というのは、
ちょっと、余分なことがくっついちゃったな、という感じ。

なにか世の中の役に立てるという証拠が人として尊重してもらうために必要だとの前提を
最初から受け入れてしまって、いわば”存在意義”の証明をしようとしているように聞こえる。

これは、日本でも重症児の親の発言にありがちな言い方で、
私はいつも抵抗を覚えるのだけど、

そこには、重症児の親や支援関係者が、
「こんな子が生きていて何になるのか」と社会から問われているかのように
無意識のうちに感じさせられていて、それに対して、
子らの”存在意義”の証明を試みなければならないような心理が
自動的に働いているのかもしれないのだけれど、

そこは、「なんになるのか」という問いそのものを否定すべきなんじゃないのだろうか。

そもそも人は何かのためにならなければ生きて存在してはならないものなのか。
その問いを向けられる人と向けられない人があるとしたら、それはなぜか。
その問いは、どういう人にだけ向けられるのか。
その問いに答えを出せなかったら、待機している次の問いは何なのか。
――と、問い返さなければならないんじゃないだろうか。

そして、そういうふうに問い返しつつ、
別に何のためにもならなくたって人は人として尊重されてよいはずだ、
というところから本当は動かないでいるべきなんじゃないだろうか。

次に、
子どもの命を託された親が子どものケアをするのは「義務であり幸運」という言い方は
子どもの身体を侵襲して介護負担を軽減する点だけを批判して終わってしまうと思う。

"Ashley療法"には負担軽減によって介護を親に背負いこませる論理が隠れているけれど、
「義務であり幸運」という言い方もまた、親は負担は負担のまま黙って抱え込んで然りと主張する。

Claireさんが同じ重症児の親である立場から批判しようとして、
そっちに行ってしまったのは気持ちとして分からないではないのだけれど、
そのために、「社会が変わらなければならない」という障害当事者らからの批判の声が
ここに入り込む余地がなくなってしまうことの危険に気付いてほしかった。

そこに気づけないのは、
私たち障害児の親が無意識のうちに規範として内在化させてしまっている
「子どもに障害があったら、その子どもは親が生涯に渡ってケアするもの」という
「障害児の親のステレオタイプ」が、それだけ根深いからじゃないだろうか。

Claireさんの頭の中にある自分と娘のSophieさんとの関係が
「延長された育児・子育て」としてしかイメージされておらず、
成人し、大人になっていくSophieさんがイメージされていないのだと思う。

でも、それは、実はClaireさん自身が
知的障害の重さに基づいて、娘との関係をいつまでも親と子の育児関係でとらえているわけで、

障害の重い娘は親から自立することはあり得ないという意識があるのだとしたら、
それは「障害はあっても、その子なりに成長する」というClaireさん自身の主張と矛盾している。

もしも、どんなに重症の知的障害のある子どもでも、
その子どもなりに成長していくと主張し、その言葉を信じるのであれば、
重症障害のある子どもだからといって、いつまでも親にケアされ
親との密接な関係の中にだけ抱え込まれて暮らすことが本当に幸せかどうか……と
親もどこかで疑問を抱いてもいいのではなかろうか。

(Claireさんは聡明な人なので、単にまだ時期が来ていないだけなのかもしれないけど)

そもそも、知的障害のない障害者の場合、
それは「幸せかどうか」の問題ですらなく
親から自立して暮らす「権利」の問題と捉えられるのに、
重症重複障害者の場合には(と言うよりも、おそらく重症知的障害者の場合には)
なぜ自動的に「権利」の問題でなくなってしまうのだろう。

”Ashley療法”論争を巡って個人的にやり取りをした際に、
障害者の権利擁護の運動や研究をしている人ですら
「なにがAshleyにとって幸福なのか」という問いの立て方をすることに、

「Ashleyに必要なのは家族という小さな世界」と言ったDiekema医師の言葉を、
それは批判する側も共有しているということではないのか、という疑問と苛立ちとを、
私はずっと感じてきた。

それは、Ashleyには選択できないから、だろうか。

でも、自立生活の権利を主張する身障者たちだって選択できないと思いこまれていたからこそ
そのパターナリズムと闘わなければならなかったのではないんだろうか。



Sophieさんは彼女なりに人として成長する。
したがって、現在Claireさんが「義務であり幸運」と呼ぶ「子育て」は
今後は徐々に、親による子の「介護」へと変っていく。
Sophieさんには、親とだけの小さな世界よりも、もっと広い世界で生きていく権利があるはずだ。

そして、Claireさんは人として老いる
それは「義務」や「幸運」や麗しい「親のステレオタイプ」では越えることのできない、
どんなに愛情のある親にも訪れる、人としての現実だ。

だからこそ、障害のある子供と親の権利が
どちらかがどちらかをほとんど全否定することによってしか成り立たないような
不幸な事態を生まないためには、

「義務」や「幸運」と胸を張って抱え込むよりも
Sophieさんなりの「親からの自立」を自然に考えることができるように
それだけの受け皿とサービスがある社会へと、目を向けてほしかった。

少なくとも、
「社会の方が変わらなければならない」という主張は落とさないでほしかったと思う。

その主張を落としたまま、重症児の親だからこその“Ashley療法”批判が
「愛情あるまっとうな親なら成長抑制などせずとも立派に介護してみせます」という方向に向かってしまうと、
また論争当初のように親の愛情の問題や、親の評価の問題へと問題がすり替えられてしまう。

成長抑制やAshley療法を批判する人は、そこのところの危険性に自覚的でありたい。

最初から、これは親の愛や評価の問題ではなかったのだけれど、
”Ashley療法”の倫理問題を親の愛の問題にすり替えたのはDiekema医師らのマヤカシの戦術であり、

また、どこの国の社会でも、その方が社会にとって都合が良ければ
コトが美しい「親の愛」や「家族の愛」の問題に情緒的にすり替えられて、
権利の要求や現実への抗議の口封じや、または
ある方向への世論誘導に利用されているのだから。