成長抑制を巡って障害学や障害者運動の人たちに問うてみたいこと

23日の成長抑制シンポ
会場の発達障害のある子どもの母親数人から以下のような発言があったとのこと。

子どもが成長して身長が伸びると父親にも抱き上げることが出来なくなり、
散歩にすらつれて行ってやることが出来ない。

移民の女性は、成人した障害のある子どもを
母国につれて帰って親戚に会わせてやることが出来ない。

障害学の学者は支援サービスがあれば解決できると言い続けているけれども、
仮に明日、魔法のように支援が出現したとしても、それで十分なわけではない。
ケア提供者も支援テクノロジーも結構だけれども
親が自分の手で抱き上げてやって家族だけで過ごすことができるのとは違う。

成長抑制はこうした問題の解決策である。


私は2年前の“Ashley療法”論争の時から、ずっと、
障害学の専門家や障害者運動の障害当事者・アドボケイトの人たちに
この母親たちと全く逆の意味で疑問に思っていることがあって、
ただ障害学についてはほとんど何も知らないので
思い切って書けずにきたのですが、

もしも、そういう立場の人たちが
こうした母親たちの声を聞いて
重症児への成長抑制には利点があると考えるとしたら、
その点が私の当初からの疑問と重なってくるので、
思い切って書いてみます。

障害者運動をしてきた人たちは
いくつになっても親に幼児のように保護(支配)されるのではなく、
親から自立して地域で暮らせることを当たり前の権利として求めてきたのだと
私は理解しているのですが、

その権利には一定の知的レベルで線が引かれていたのでしょうか。

障害者運動が求めてきたのは障害の種別や程度を問わず全ての障害者の権利だと
私は2年前まで考えていたので、

2年前の論争の時に
「重症児は赤ん坊のように親に生涯ケアしてもらうのが幸せ」という主張を
障害学や障害者運動の人たちが否定しなかったことに
実は私は大きなショックを受けました。

「どんなに重度であっても地域で自立した暮らしを」というのは
身体障害についてだけの話だったのでしょうか。

よく考えてみて欲しいのですが、
上記の母親たちの
「体が大きくなったら散歩にも連れて行ってやれない」
「母国につれて帰ってやれない」という嘆きは、
実は重い身体障害がもたらす制約についての嘆きです。

知的障害とは無関係に重い身体障害があれば起こってくることです。

子どもの成長と共に起こってくる介護の困難は同じでありながら
知的障害を伴わない(または軽度の知的障害を伴う)重症の身体障害児であれば
成長と共に親から自立して地域で独立して暮らすことは当たり前の権利だとされ
従ってホルモン大量投与による成長抑制など言語道断で対象外なのに、

その身体障害児が重度の知的障害を伴う場合にだけは
その子には親から自立した地域生活の権利などなく
親の保護下でいつまでも暮らすことが本人の幸福だとされ
従ってホルモン大量投与による成長抑制は本人のメリットだと

障害学や障害者の人権を求める当事者やアドボケイトが
重症の知的障害の有無によって別の基準を当てはめるのだとしたら、

それは障害学や障害者の人権運動までが
Diekema医師らが当初から主張しているように
重症重複障害児・者だけを他の障害者とは別の存在として線引きをし、

Ashleyの親がPillow Angelと彼女を呼んでいるように
重症重複障害児を赤ん坊扱いすることと同じではないのでしょうか。

障害者の自立運動では後発の日本ですら
最近は重症重複障害者のケアホームができつつあります。

重症児だから「親元か施設か」の選択しかない、というわけではないでしょう。

もしも障害学や障害者運動が
障害の種別や程度を問わず全ての障害者に健常者と同じように地域で暮らす権利を求めるのであれば、

Ashleyのような重症重複障害児にも
成長と共に十分なアドボカシーとケアを受けて親から自立し、
地域で暮らす権利を認めるべきであり、
それが保障される支援を求めていくべきなのではないでしょうか。

もしも「現実に十分な支援などないし、これからもありえない」ことが
障害者自身の身体に手を加えることの免罪符になるのであれば、それは同時に
自立した地域生活を送るための支援が得られず難儀している身障者の身体にも
医療やテクノロジーで手を加えてもいいという免罪符にもなるのではないでしょうか。