重症心身障害児・者にはアドボケイトがいない、ということ

“Ashley療法”論争からずっと考えていることの1つは
いわゆる重症心身障害のある人たちには
本当の意味でのアドボケイトがいないんじゃないか、ということ。

私は日本の事情しか分からないし
日本の事情にしても、ロクにまともに勉強したわけではなく
狭い範囲の経験や知識に基づいて誤解もあるとは思うのですが、

障害者運動というのは脳性まひ者を中心にスタートして、
それから他の障害にも広げられてきて
基本的には自分で声を上げて立場を主張できる人たちが担ってきたと思うし
障害学にしても様々な障害をもつ当事者が大変な苦労をしつつ
自ら研究者になることで切り開かれてきた学問でもあるんだろうなと思う。

その中で、
理念としては「全ての障害者」という原理原則によって
カバーされてきたはずなのだけれども、
やはり自ら表現することが難しい重症の知的障害者の声は上がりにくいし、
更にそこに重症の身体障害を併せ持つ重症重複障害児・者は声を持たないだけでなく、
物理的にも姿が見えにくいところに追いやられてしまってきたために
イメージすることそのものが難しいのかもしれない。

そこで重心児・者の代弁者はこれまでずっと
重症児医療を担ってきた医師と親、ということになってきた。

もちろん、一般に広く障害者福祉が欠落していた世の中で
誰の意識にも存在していなかった重心児・者への福祉を求め続けてきた
これまでの医師や親の運動は不可欠だったし、大きな貢献だったとも思うのだけれども、

反面、大きなノーマライゼーションの流れが起こってきた世の中の変化の中で考えると、
「どんなに重い障害を持っていても地域で当たり前の生活を」という主張が行われ、
多くの障害当事者とアドボケイトがそれぞれ
障害の特性に応じた具体的な改善要求を出してきた一方で、
重症心身障害児・者当人の権利だけは
その多くが入所施設の経営者である医師と親によってのみ代弁されてきたわけで、

Ashley事件からずっと私の頭を離れない疑問は
それは本当のところ、重心児・者本人の利益の代弁なのか、
実は施設の利害と親のエゴが「代弁」に成り代わっているのではないのか、ということ。

そういう意味で、
重症心身障害児・者には本当のアドボケイトは存在していないのではないか、ということ。

Ashley事件でも顕著だったのは
重症児だから親の愛情のもとに置かれ一生親のケアを受けるのが本人の幸福という
集団的な思い込み。

それが世間や親の側の勝手な思い込みではないという保障がどこにあるのかと
重症児の親である私自身、とても疑問に思うし、

障害者運動が最も憎み、否定し戦い続けてきたのは
そういう親からの愛情の押し付けであり支配だったはずで、
(更に言えば、こうした医療からの介入であり支配だったはずで)

重症重複障害児・者だけは親の愛情を押し付けられ、
一生を親と共に狭い家庭で暮らすことが本人の幸福だと
そこに線引きをして、背を向けないで欲しい。

私自身、子どもを重心施設に預けている親として、
Ashley事件との出会いから、ずっと葛藤しています。

それはAshley事件との出会いによって
親である自分こそが娘の最良のアドボケイトだと考えてきた自分自身の足元が揺らいでしまったから。

この2年間ずっと、そのことを考え続けて、今
親はやはり重心児・者本人のアドボケイトにはなれないし
なるべきではないのかもしれない、という気がしています。

障害のある子どもと親との間に利益の衝突があることは明らかだし、
その利益の衝突が重心児・者の場合にだけ消滅するということはありえない。

愛情から障害のある子どもを殺す親は後を絶ちません。

重い知的障害と身体障害を併せ持ち、
「こんなにも非力で自分で我が身を守ることが出来ない我が子」を
この社会に託して死んでいく自信がまだ持てないでいる私には
娘本人の利益を代弁する資格はないのだろう、と思う。

だけど、私もまた
わざわざ子どもをつれて死にたいわけでも
子どもを殺したいわけでもないのです。

安心して子どもを残して死んでいけるために
重症児の親は何を望めばいいのだろう……と
この2年間考え続けてきました。

もちろん重症児・者が安全に暮らしていける環境が保障されて欲しい。
そして、声がなく、自分で身を守ることが出来ないだけに、
親や医師や施設の利益とは全く切り離されたところで
本人たちの利益だけを代弁するアドボケイトがいてほしい。

そうしたら、きっと
どんなに重い障害を持った子どもの親でも、
ちょっと自分は手を引き、一歩引いたところで
子どもが人の手を借りながら自分の人生を生きていく姿を
ゆったりと見守ることができるんじゃないだろうか。

そして、ゆったりと見守りつつ、
我が子にもこの社会で生きていける安全な居場所があると信頼することが出来たら
もしかしたら残して死んでいくことができるんじゃないだろうか。

少なくとも、
重心者は意思疎通が出来ないから、
どうせ何もわかっていない赤ん坊と同じだと決め付けられて
他の障害者とは話が別だと一線を引かれ、
他の障害者には許されない身体への侵襲が安易に許されるような社会には
私は重症重複障害のある我が子を托して逝くことはできないと思う。