乙武クンは安楽死の対象?
生まれた子どもに四肢が欠けていた。
医師が神経異常を疑ってMRI検査を行ったところ、
脳神経系の異常はなかった。
母親は
「自分が生きている間は面倒を見てやれる。
けど自分が死んだ後、
この子はどうなるんですか?
この子には自分の身の回りのこともできないというのに」
と言って、治療停止を求めた。
医師が神経異常を疑ってMRI検査を行ったところ、
脳神経系の異常はなかった。
母親は
「自分が生きている間は面倒を見てやれる。
けど自分が死んだ後、
この子はどうなるんですか?
この子には自分の身の回りのこともできないというのに」
と言って、治療停止を求めた。
母親の言葉を再現する時のParisは
ちょっとスピードを落として丁寧に語る演出までしていました。
ちょっとスピードを落として丁寧に語る演出までしていました。
――――――
実はParisが聞かせた母親の最後の言葉は “Stop”でした。
文脈から治療停止を求めているのは明らかですが、
中止を求められた「治療」の内容は明らかにされていません。
明らかにされていないのに、
ここでのStopは「治療を停止して、この子を死なせる」意味だと
会場ではなんとなく暗黙のうちに了解されていました。
中止を求められた「治療」の内容は明らかにされていません。
明らかにされていないのに、
ここでのStopは「治療を停止して、この子を死なせる」意味だと
会場ではなんとなく暗黙のうちに了解されていました。
そこのところが飛躍している。
それが、この事例の奇妙なところだと私は思うのです。
それが、この事例の奇妙なところだと私は思うのです。
どうして脳神経系の異常がない四肢欠損だけで
「停止したら死なせることになるような治療」の対象になるのでしょうか。
「停止したら死なせることになるような治療」の対象になるのでしょうか。
どうもAshley療法論争にしても、この事例にしても、
具体的な障害像抜きに、
言葉のイメージだけで
「障害の深刻さ」がでっち上げられていくという気がしてなりません。
具体的な障害像抜きに、
言葉のイメージだけで
「障害の深刻さ」がでっち上げられていくという気がしてなりません。
―――
それ以前に
「障害児が生まれたら親しか面倒を見られない」という前提もなくなります。
「障害児が生まれたら親しか面倒を見られない」という前提もなくなります。
また
「重い障害があると親や家族にしか愛してもらえない」
「親や家族に愛してもらえれば、それで幸せ」
「この子に必要なのは小さな世界(Diekema医師の言葉)」
といった“Ashley療法”論争にも見られる暗黙の前提も、
親以外の人と関わることを通じて変わってくるはずです。
「重い障害があると親や家族にしか愛してもらえない」
「親や家族に愛してもらえれば、それで幸せ」
「この子に必要なのは小さな世界(Diekema医師の言葉)」
といった“Ashley療法”論争にも見られる暗黙の前提も、
親以外の人と関わることを通じて変わってくるはずです。
子どもにとっても
親や家族以外の人との関係を獲得することによって
より豊かな生活を送ることができるでしょう。
親や家族以外の人との関係を獲得することによって
より豊かな生活を送ることができるでしょう。
Paris牧師の13日の講演についてのエントリーはこちら