乙武クンは安楽死の対象?

シアトル子ども病院生命倫理カンファの2日目
7月14日午前のパネルの冒頭、
John J. Parisが「白黒つけにくい灰色のケース」として紹介したのは
以下のような事例でした。

生まれた子どもに四肢が欠けていた。
医師が神経異常を疑ってMRI検査を行ったところ、
脳神経系の異常はなかった。
母親は
「自分が生きている間は面倒を見てやれる。
 けど自分が死んだ後、
 この子はどうなるんですか?
 この子には自分の身の回りのこともできないというのに」
と言って、治療停止を求めた。

Parisの口調は、
「医師としてはMRIで異常がなければ満足かもしれないが」
でも母親の言葉に、キミたち、抵抗できるか?」
といったニュアンス。

母親の言葉を再現する時のParisは
ちょっとスピードを落として丁寧に語る演出までしていました。

        ――――――

実はParisが聞かせた母親の最後の言葉は “Stop”でした。

文脈から治療停止を求めているのは明らかですが、
中止を求められた「治療」の内容は明らかにされていません。
明らかにされていないのに、
ここでのStopは「治療を停止して、この子を死なせる」意味だと
会場ではなんとなく暗黙のうちに了解されていました。

そこのところが飛躍している。
それが、この事例の奇妙なところだと私は思うのです。

どうして脳神経系の異常がない四肢欠損だけで
「停止したら死なせることになるような治療」の対象になるのでしょうか。

どうもAshley療法論争にしても、この事例にしても、
具体的な障害像抜きに、
言葉のイメージだけで
「障害の深刻さ」がでっち上げられていくという気がしてなりません。


「四肢欠損」と「安楽死」とが
こんなに簡単に繋がれてしまったことにびっくりして、
その拍子に、ふっと頭に浮かんだのですが、
Parisの事例の障害像は、あの“乙武クン”なのですね。

米国の生命倫理・医療倫理は
乙武クンの安楽死を議論し始めている……?

しかも親(特に母親)の愛情を、
安楽死容認や正当化のアリバイに使って?



              ―――

いつも思うのですが、
なぜ生命倫理・医療倫理の議論には
福祉の視点が欠落しているのか──。

福祉サービスの存在を前提に加えれば、
「親が死んだ後で誰が面倒を見るのか」という問いは
決して安楽死を正当化しないし、

それ以前に
「障害児が生まれたら親しか面倒を見られない」という前提もなくなります。

また
「重い障害があると親や家族にしか愛してもらえない」
「親や家族に愛してもらえれば、それで幸せ」
「この子に必要なのは小さな世界(Diekema医師の言葉)」
といった“Ashley療法”論争にも見られる暗黙の前提も、
親以外の人と関わることを通じて変わってくるはずです。

子どもにとっても
親や家族以外の人との関係を獲得することによって
より豊かな生活を送ることができるでしょう。

乙武クンは大学に進学し、仕事をし、結婚し、
そして父親になったとも。
確かに彼はレアなケース、
いわば障害者の中の超エリートという面はあるかもしれませんが

しかし彼を念頭に考えてみれば、
具体的な障害像を置き去りに、
ただ「極度に重い障害」というイメージ先行で
「四肢欠損」が安楽死議論の文脈で云々されることの危うさが
懸念されないでしょうか。



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