裁判所が13歳に中絶を命令

「わたしのなかのあなた」の主人公アナは13歳でしたが、イタリアでは親の訴えを受けた裁判所が13歳の少女に中絶を命じています。

13歳の少女Valentinaが15歳の少年によって妊娠し、本人は生むことを希望。しかし、Valentinaの両親は、その子どもを産むと娘は人生を台無しにする、娘には生まれた子どもを育てる財力もないとの理由で、中絶させたいと未成年裁判所(the Court of Minors)へ。裁判官はValentinaに中絶を命じた。

イタリアの法律では未成年には妊娠を継続するか中絶するかを決定する権利がないので、ガーディアンまたは両親に中絶を強制される場合がある。

しかしValentinaは中絶の後、自殺念慮があり子ども病院の精神科に収容された。

「あんたたちが私に殺させたんだから、今度は自分で殺すわ。自分を殺すのよ。こんなところにいたくなんかない。私はクレイジーなわけじゃないもの。親と裁判官に無理やりやらされたことが、私を犬なみに邪悪(evil)にしてしまっただけ」とVlentina。

Girl Suffers Forced Abortion in Italy : Minors have no “right to choose” life in Catholic nation
LifeSiteNews.com Feb.19, 2007

13歳という年齢の捉え方の難しさと同時に、子どもに関する親の権利をどう考えるのかという問題の難しさも感じるケースです。

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このケースを論じたブログがありました。


親であっても裁判所であっても中絶を命ずることは人道的ではないという批判に対して、書き込まれたコメントには、現実問題として13歳の子どもに子育ては無理だから、結局はその両親が子育てをすることになるのであり、その負担を考えれば両親に決定権があるのもやむをえない、との意見も。

後者の意見には、「介護するのが親である以上、外野には口を出す資格はない」という“アシュリー療法”論争の際に多かった擁護論に通じるものがあるように感じます。

人権を考える際に、こういう「現実に負担を担う人に決める権利がある」という論法を持ち込むことには、危うさがあるような気がするのですが。

だって、「負担を担える人」というのは往々にして強者の立場にいる人なのでは? 

それに、その論法がまかり通るところには、「本人の最善の利益」議論そのものがありえないのでは?


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……ってことを考えていたら、ふっと疑問が頭に浮かんだのですが、

無益な治療(futile care)という概念が、そもそも「限られた医療資源の分配」という医療提供側の必要から出てきたのだとすると、これもまた「現実に負担を担う人に、治療を受けることのできる人できない人を決める権利がある」という論法なのかも……?