Hannahの移植拒否報道に思うこと

前回のエントリーで紹介したケース、

13歳の少女が延命効果が見込めない心臓移植を拒否し
残された時間を家で家族と共に過ごしたいとの望みが受け入れられたケースについて
日本を含めて、あちこちで報道されているようですが、
ちょっと気になるのは
Hannahの心臓移植の延命効果についてどういう書き方をするかによって
記事が読者にもたらす問題意識はずいぶん違うのだろうな、ということ。

そして、もしかしたら、その点を曖昧にすることによって
この議論もまた変質させられて
本質とはまったく別の方向に誘導されかねないのでは、という懸念も覚えるので。


例えば、以下のGuardianの記事は
長い副題に見られるように「救命の可能性のある心臓移植を拒んだ」という表現を使っています。

Hannah’s choice
Hannah Jones has refused the heart transplant that could save her life. But is a 13-year-old too young to make that decision? Or is she the only person who can?
By Patrick Barkham
The Guardian, November 12


そういう表現はちょっと正確とはいえないんじゃないかなぁ……と引っかかったので
読んでみると、

この記事がHannahのケースから提起する問題意識とは

・子どもは何歳から自分の医療についての自己決定権を認められるべきか?
(つまり13歳では早すぎるのではないか?)

・その子どもに自己決定能力がないと判断された場合に
医療サイドはどのように子どもの最善の利益を見定めたらよいのか?

・ 子どもが積極的に死ぬための手伝いを求めたら、
つまり「死ぬ権利」を主張した場合には?

しかし、これらは全て
医療サイドが提案した心臓移植に延命効果があるという前提に立った議論であり
Hannahのケースをこのように一般化して展開していくのは
間違っているのではないでしょうか。

子どもの医療における自己決定の年齢の問題にしても
子どもの最善の利益の考え方にしても
(ここでは親の決定権は無視されていますが)
子どもの「死ぬ権利」についても

もともと医師らがHannahに提案した心臓移植のリスクが大きく、
延命効果もさして期待できないという、このケースの事実関係に立ち返れば、
Barkham氏の問題提起そのものが的外れであり、
最後には子どもの積極的な安楽死「死ぬ権利」まで持ち出すなど
飛躍もいいかげんにしてほしい。

Barkhamが何を狙ってこんな記事を書いたのか分かりませんが、
彼の問題意識が的外れである証拠に
専門家の意見として彼が取材した相手はみんな口をそろえて
今回のケースでは誰が聞いてもHannahの選択を妥当と考えるだろう、と答えています。


Ashley事件がそもそもそうなのですが
特定の事件が世の中の論議を呼ぶたびに
そのケース固有の事実関係を置き去りにした議論が行われて
事件の本質が見誤られてしまうこと、

また、そのために誰かの意図する方向に
世論が容易に誘導されてしまうことが懸念されてなりません。

      ――――――

ちなみに、Ashleyのケースの担当倫理カウンセラーだったDiekema医師は
シアトル子ども病院生命倫理カンファレンスの講演において
医療の自己決定におけるmature minor (成熟した未成年)という概念を紹介しています。
その際に、たしか12歳とか13歳を一定の基準として提示していたようです。

(講演は当時Ashley事件を念頭に聞いたもので、
 この部分は記事にしていないか、または書いているのだけど探し当てることが出来ないので
 記憶が間違っている可能性もなくはありませんが)

米国では去年、
抗がん剤治療を拒んだ15歳の少年の自己決定を
裁判所が認めたAbraham Cherrixのケースがありました。

また、13歳の少女の中絶の意思決定を巡って
英国と米国それぞれで話題になりました。


その他、子どもの医療での自己決定の問題では
病気の兄弟に対する臓器提供を行う“救済者兄弟”の問題、また輸血拒否などが
年齢や意思決定能力の考え方で議論になっています。

特に親の意図によって兄弟への移植を目的に作られ生まれてくる子ども”救済者兄弟”については
子どもの自己決定権は非常に危うい問題をはらんでいるように思われます。
(詳細は「子の権利・親の権利」の書庫に)