「199の国で禁じても200番目にとってビジネス・チャンス」の世界の救いのなさについて

8月末にこのブログを休止してからずっと
頭の中にぐるぐると転がり続けている言葉がありました。

スタンフォード大の法・生命科学センターのHank Greely氏が
最新の着床前全ゲノム読解診断検査について言った、次の言葉です。

世界にはざっと200の国があります。
仮に199の国で禁じたとしても、
それは200番目の国にとって多大なビジネス・チャンスとなるだけ。




「世の中が向かっている方向がここまで見えてしまったら
個々の事象で起こっていることを追いかけても、もう意味がないのでは」という思いは
かなり前から抱えつつ日々のエントリーを書いていたのですが、これを読んだ時に、
ふっと、もうこれまで通りに追いかける気力がなくなってしまった……に
転じてしまいました。

この言葉こそ、
このブログで追いかけてきた
「科学とテクノで簡単解決文化」と結びついた
グローバル人でなし強欲ネオリベ金融(慈善)資本主義の世界の救いのなさ
そのものだ……という気がしたのです。

それで、とりあえずブログを休止したあとも、
この言葉のことをとりとめもなく考えていたような気がします。


その間に頭に去来したことというのは、例えば、これ ↓
「3人の親を持つ子ども」IVF技術で遺伝病回避……パブコメ(2012/9/18)

また例えば、
同じく遺伝子診断による胚の選別技術を用いて
病気の姉・兄のドナーとして生まれてくる子ども“救済者兄弟”のこと。

それらの問題を巡っては倫理問題が指摘されつつも、
逆にむしろ生命倫理学者らの議論が技術の利用容認への露払いをする形で
強引にこうした技術の利用が進められていく。その背景にあるのは
科学とテクノの研究の激烈な国際競争なのだ……と
これまで以下のエントリーなどで書いてきたことを改めて確認する思い。



最近ではこういうことまで起こって、
こうして研究と技術開発の競争激化は、さらに歯止めなき泥沼と化していく ↓
胚の細胞周期にかかる時間に特許とった大学とバイオ企業に非難ごうごう(米)(2013/7/11)


それから、「生命の操作」をもう少し広げてみた時に頭に浮かぶのは、例えば、
グローバル化する代理母ツーリズムのこと。

国によっては代理母を一箇所に住まわせて行動を束縛し、
管理・監視して、もはや代理母なんだか子どもを生む奴隷なんだか分からないような
実態も報告されている。(補遺のどこかに元情報があると思いますが)

それでも、地球上のどこかに代理母を禁止していない国があり、
代理母をやりたいという女性がいて、依頼者との仲介をするビジネスが存在して
そのサービスを対価を払って利用して子どもを持ちたいという人がいれば、
それはその人の自己選択。

代理母をやりたいという女性についても、
それが仮にそれ以外には我が子を育ててゆくすべがないところへ
ギリギリに追い詰められたゆえの選択だったとしても、
やりたいというのはその女性の自己選択・自己決定ということになってしまう。

搾取だという批判はあるけれど、その一方で
金持ちはそれで子どもがもてて、貧乏な人には金が入るのだから
両者ウイン・ウインの関係だと主張する人もいる。

インドでは、その一方で、
貧困層の女性を「この手術を受ければあげますよ」と日用品で釣って、
大量の不妊手術が行われている。

医師が何人も手早く手術して、
術後の女性はろくに痛み止めも与えられずに
屋外の地べたに寝転がされている。

そういう実態は写真ごと報告されていて、国際世論の批判はあっても、
女性たちが自分でそこに「手術を受けます」と行っている以上は
それも本人たちの自由意志による自己選択・自己決定ということになってしまうのでしょう。



同じように世界のどこかに「臓器が買える国」があって、臓器を売ろうとする人がいるなら、
それがたとえ、それ以外に生きるすべがないからという理由であったとしても、
売ることはその人の自由意志による「自己選択」「自己決定」なのだろうし、
そういう場所と人がある限り、世界中の199の国で臓器売買を禁じたとしても、
それは200番目の国にとって大きなビジネス・チャンスになるだけなのでしょう。

ベルギーでは、すでに書いたように
安楽死後臓器提供」が数年前から行われていますが、
その中に精神障害者が含まれていることが、
この5月に移植医らから論文報告されていました。


ベルギーの移植医らは、これもまた「患者の自己決定」だと言います。そして、
「一人で何人もの命を救うことのできるすばらしい愛他行為」だと賞賛します。

でも、本当にそれでいいのか、いいはずないだろう、と思う。

思うけれど、
上の「199の国で禁じたとしても」に象徴されるように、
経済の論理の暴走を倫理の論理では制御できない世界が
すでに出来上がってしまったのだ……と考えると、

そこから先を考えることができなくなってしまう。
そこから先を考えても意味がない、何にもならないことになってしまう。
だから、考えようとする気力がなくなってしまう。

ミュウたちのことを考えると、
そこから先を考えようとするだけで、もう恐ろしくてならない。

そんなふうに「希望がない」「救いがない」としか言えないのなら
黙るしかない、黙るべきだ、黙る方がいい――。

8月の末に思ったのは、そういうことだった……んだな、と思う。