映画「わたしを離さないで」 論評2本(カナダ・オーストラリア)

映画の公式サイト(英語)はこちら
英語圏でも公開中らしく、ツイッター随時追加されています)

日本語の公式サイトはこちら

原作を読んで1月に書いたエントリーは、こちらに ↓
カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」メモ(2011/1/13)


現在日本で公開中の映画「わたしを離さないで」について
去年カナダで公開された際に生命倫理学者 Margaret Somervilleが
素晴らしい論説を書いている。

まず、冒頭、作品の設定を説明した上で、

現在カナダで公開中の
カズオ・イシグロの原作に基づく映画Never Let Me Goで我々が目撃するのは
急速に発達中の「再生医療」と呼ばれているものが
倫理的に使用されれば大いなる希望をもたらす反面、
非倫理的に使用された時に何が起こりうるかという
ディストピアの一例である。

その後、Somervilleが指摘しているのは、

過去に時代設定された軽々しく風変わりなSFとして映画評論家は論評しているが
この設定に関わっているのは臓器移植、遺伝子操作、生殖補助など50年代、60年代には
既に世の中に登場していた技術であり、現在は「科学的事実 Science Fact」である。

ここに描かれている世界は我々が思うよりもはるかに我々の近くにある。

映画の強烈なメッセージとは、
21世紀のテクノ科学が提起する倫理問題に
我々は今よりももっと敏感になる必要がある、というものだ。

例えば、と彼女が指摘しているのは、

・富裕な人間の将来の必要のために臓器庫として作られたクローンである主人公たちは
モノとして扱われ、人間として扱われていない。それは、彼らへの扱いからも
また頻繁に「可哀そうな子たち you poor creatures」とかけられる言葉からも感じられるが、
こうして彼らを人間扱いしないことによって、彼ら自身も非人間的になっていくことは
現在のヒト胚や胎児を云々する時の我々の姿勢や言葉遣いを思わせる。

ヘイルシャムの寮で主人公たちの健康維持を管理する医師や看護師のふるまいは
まるで修理工が車を点検するかのようだし、

主人公の一人の「ドナー」から
命にかかわる臓器(たぶん肺だったと思う)を摘出するシーンで
医療職たちは摘出の作業までは慎重に行うものの、あとは
さっさと生命維持装置を切り「患者」への関心を全く失って、
血だらけの穴を縫合もせず患者を置き去りにしていく。

あれほどの医療倫理にもとる行いができるとは、一体どういう医師や看護師なのか。

ナチの医師らにも問われた問いだ。どこかの国では現在も、
囚人をドナーにして同じことが行われているのではないのか。
カナダ人がそのレシピエントになっている可能性は?

なぜ(映画の)社会にはそれを禁じることができなかったのか?
一体どこに監視団体が、倫理問題を担う科学や医療の専門組織が? 
そんなセーフガードは機能を失った事態だったとでも?

・つまるところ、これらの子どもたちの「畜産」は儲かる産業なのだ。

そのための言葉の言い替えは巧妙で、彼らを作らせた人間は originalだし、
自分がコピーである相手を目撃すると、その相手は possible だし、

当然、そこには kill も death もない。
ドナーは die 「死ぬ」のではなく、complete 「終了」するのである。

ちょうど
ヒトクローンは「実験目的でのみ」作るならいい、と言う人たちがいるように。

しかし、試験管の中のクローン胎児の細胞を1つ取り出して、女性の子宮に着床させ、
もう一つを冷凍しておいて、生まれた子どもに病気があったら
その時は代理母に妊娠させて最終段階で中絶、その臓器を使うことは?
(と、その行為とこの映画が描く行為との距離を問うているのだと思う)

Never Let Me Goは
道徳的な良心も道徳的な感覚も持たない人たちが純粋功利主義と道徳的相対主義によって
新たなテクノ科学を統制したら、当然起こってくる「倫理的アウトカム」への
痛切な警句である。

(ここで私の頭に浮かんだのは、Savulescu と Wilkinson と Singer と Fost)



もう1つ、オーストラリアから。

必要とする人みんなにスペアの臓器を保障するためには、
政府は他者に臓器を提供するための人間のブリーディングを行わなければならない。
それが、この映画のキモである。

臓器不足は世界中で深刻で、
英国ではマンチェスター大のJohn Harrisが売買を認めようと提案したばかりだし、
すでに「みなし同意」制度を導入した国がスペイン、フランス、ベルギー、スウェーデン
その他の国でも検討されている。

イシグロの原作小説が発表された2005年とは、
40代の女性たちが若い女性から卵子を買い始め、
病気の子の親たちが“救済者兄弟”を作り始めた頃だ。

人の身体を利用すれば利益を得て良い方に向かう。
社会はそういうメッセージを送っている。

ニコール・キッドマン代理母
「gestational carrier 妊娠代行者? 胎児培養容器?」と称される時代だ。



なお、上の記事にはなかったけれど、オーストラリアの記事によると、
別のところでSomervilleは以下のように書いているとのこと。

Each technology, taken alone, raises serious ethical issues, but combined they raise ethical issues of a different order, as we see in Never Let Me Go." (themark.com, Nov 25, 2010)

テクノロジーのそれぞれは、それ1つでは深刻な倫理問題は生じないが、
それらが合わせられた時には、まったく異なった次元の倫理問題が生じる。
Never Let Me Goに見られるように。


【追記】
その後、Somervilleが言及しているHarrisの記事を見つけて
次のエントリーを書きました。