「丁寧なドナー・ケア」は医療職の抵抗感をなくしてDCDをさらに推進するため?

前のエントリーでとりあげた論文について
Anesthesia & Analgesiaの同じ号に掲載された論説。

Donation After Cardiac Death and the Anesthesiologist
Anesthesia-analogesia, May 2010, Volume 110, Number 5


まず、米国のみならず国際的にも
DCDが推奨されている動向を解説する最初の部分で
the rather shameful lack of donors in the United States 、
ドナー不足を「shameful 恥ずべき」と形容していることから想像されるように
この論説の著者は米国に多々見かける「臓器不足解消が何よりも大切」論者の一人と思われます。

それでなのか、どうか、この論説、私には
元論文の趣旨が部分的に捻じ曲げられているようにも思えるのですが、

前半の論旨は概ね、以下のような感じ。

脳死概念には医療職の抵抗感は薄れてきたにもかかわらず、いまだ移植臓器を必要とする人に十分に臓器がいきわたらず、臓器を待ちながら死んでいく人が毎日19人もいるという「恥ずべき」臓器不足がある。
その解消に向け、米国保健省は以下の3つの方針を打ち出している。生体ドナーの増加。ドナー要件の緩和(例えば肝臓グラフトのための生体ドナーの対象年齢引き上げ)。DCDドナーの利用増加。
自立、平等、功利(autonomy, equity, utility)という倫理基準のバランスを考えると、これら3つはそれぞれに倫理的なグレー・ゾーンを含み、特にDCDはこれらのバランスを功利の側に傾斜させるが、国際的な移植医療界も米国医学院も米国集中治療学会もDCDの推進の方向性で一致している。(従って「グレー・ゾーン」は問題にならない?)
にもかかわらず、DCDが今だ臓器不足を解消するだけ普及しない理由の一つには医療職がDCDのプロセスに心理的抵抗を感じているということがある。(グレー・ゾーンの倫理問題ゆえにではなく?)
Auyongらのこの度の論文が反映しているのも、こうした医療職のDCDに対する違和感である。
Auyongらの論文で報告された症例の脳波の変化は、脳の活動が全面停止していないからドナーは脳死と診断されていないわけだから、それを考えれば、とりたてて驚くような現象ではないが、
ICUでの使用が継続する形で麻酔薬や睡眠薬がDCDのプロセスの間にも使われているケースも報告されてはおり、
その点は死を早める薬物の使用が禁じられたDCDプロトコルの間で整理が必要。そのためにも治療停止の際の脳機能のメカニズムについて更なる研究を、というのが著者らの指摘であろう。

なにやら私の耳には次のように聞こえる。
「もともと脳死と診断されていない患者なんだから
脳波に変動があったって騒ぐようなことじゃないのに、
こんな症例報告を書いて問題にされること自体が
医療職がDCDを受け入れられていない証拠。

著者らはDCDでは麻酔薬の使用は禁忌になっていると言うが
実際には使われているのだし、その辺りを整理して
「良質なドナー・ケア」をすることでその抵抗感が薄れるなら
DCDの推進をうたう各種機関の提言にも沿っていることなんだから、やれば?」

実際、この後、この論説の著者は例えば、以下の一文に見られるように、

……review of DCD cases with all personnel involved at the local level is critical for the quality of donor care for addressing the emotional concerns of the involved medical staff.

ドナーへのケアの目的を
「医療職が感じているDCDに対する抵抗」の解消という文脈に
無理やり(?)落し込んでしまっているような印象。

元論文の著者らが求めている「さらなる研究」の必要についても、同様に、
患者の意識状態を解明するためでも患者の苦痛を軽減する麻酔薬使用の基準を作るためでもなく、

例えばDCDドナーの2割は治療中止から1時間以内に死なず、
DCDドナー候補にしてみたものの実際に臓器が取れないケースがあるなど
DCDには未解明のことが多いのが医療職の違和感に繋がっているなら
(The unknown in DCD make us uncomfortable on many fronts)

DCDのプロセスで起こっていることが解明されれば
「不必要な介入を受けつつドナーにならない」候補の軽減につながり、
ひいては医療職のDCDに対する精神的な受け入れを促進するから、望ましい……と言っているのでは?

結論が非常に興味深くて、

For the moment, we are left in difficult ethical position of balancing the best possible end-of-life care (duty to the donor) with the optimal organ donation outcome for the good of several other patients. It will never be a comfortable position, but more knowledge about the dying process can only help us improve the necessary and important care of DCD donors.

最善の終末期医療を行うという(一人の)ドナーへの義務と、(複数の他の患者の利益となる)臓器提供の効果を最大に挙げることとの間のバランスがcomfortable(違和感・抵抗を感じない)になることはありえないが、死のプロセスをもっと理解する以外にDCDドナーへの「必要かつ重要なケア」を改善できる方法もない。


ドナーに対する医師としての義務を考えていたら倫理的なバランスなんて、あるわけないけどさ、そこは、
1人のドナーへの義務と複数の患者への利益のバランスというものを考えなさいよ。

あんたたちの心理的負担の軽減のためにドナー・ケアが「必要かつ重要」だというのは
一応は分かるからさ、そのために死のプロセスを解明するといわれたら、そりゃ、まあ、やったら?


で、この人、結論へ向かう直前に、さりげなく、
「ドナーに最善の終末期医療を行う」ことを保障するために、と言いながら
その倫理バランスをちぎってドブにでも棄てるような乱暴なことを提言してみせる。

ICUでそのドナー候補の患者を担当していて
家族とも既に面識もある終末期医療の専門医が、
(緩和ケア医なら麻酔の扱いだって分かっているわけだし)
そのまま手術室に同道して、その後のプロセスにも関われば
Auyongらが報告しているようなことも起こらなくなるのだから、
それをDCDのプロトコルにすればよい、と。

だって、麻酔科医とか麻酔の扱いの分かった同じ医師が
集中治療や終末期医療からDCDの臓器摘出までずっと関わってれば
治療停止やメスが入った時に脳波が跳ね上がるなんてことはちゃんと防いでくれるから、
死んでない人を臓器のために殺すみたいに感じて気分が悪い人がいなくなるじゃん?

そしたらみんながDCDをじゃんじゃんやるようになって臓器不足も解消できるから、いいじゃん?



              ―――――

ついでに、この論説からメモ。

Wisconsin大学のグループが
どういう患者だったらDCD候補にして無事に臓器摘出に至らしめられるか
その見分け方のツールを開発したそうな。

Wisconsin大学といえば
当ブログが注目してきたチョー過激な倫理学者 Norman Fost のお膝元。
Fostは「今でも脳死者は死んでいないんだから、
生きている間から採ったってかまわないことにしよう」と
死亡者提供ルールの撤廃を説いている一人。