「DCDで生命維持停止直後に脳波が変動」するから「丁寧なドナー・ケアのために麻酔を」という米国医療の“倫理”

何度も取り上げているDCD(心臓死後臓器提供・ここでは特に「人為的」なもの)関連で
ある方から、以下の症例報告の論文をいただきました。掲載は去年5月、麻酔学の専門誌。


私は素人なので、
もしも間違っていたらどなたかご教示いただきたいのですが、

もともと脳波というものが微弱な電流であるために、その測定には
筋電図や心電図や眼球運動などの影響を受けやすいという問題があるが、
BISモニターが登場したことによって、そうしたノイズやアーティファクトといわれるものを
除外し記録することができるようになった、

論文タイトルにあるProcessed EEG というのは、従って、
このBISモニターで測定した脳波のことである……というのが、
論文を読んで、あれこれ検索してみてのspitzibaraの推理。


この論文では3つのケースが報告されており、
それらのうち2例はDCDを前提にドナー候補の患者を手術室に運び、
そこで生命維持装置を取り外すという手順を経たもの。

それぞれの詳細なデータが報告されていますが、
エントリーに含めるために専門用語をいちいち確認するのが面倒だし、
私たち素人が理解するのにさして重要とも思えないので、ここでは省略しています。
読み間違いがあるかもしれませんので、お気づきの方があったら、ご教示お願いいたします。

この論文が述べていることは概ね以下と思われます。

あるDCDケースで、生命維持を中止した直後に脳波に大きな変動が見られた。

人口呼吸器装置取り外し後5分間で1だったBISの数値が92まで上がり、
30分間は85から95の間を維持(100~90は覚醒状態)。

同じく5分後に上がった心拍数がゼロに向けて低下するにつれて
BISも4にまで下がっていったという。

これは、通常、軽い麻酔をかけた場合に起こる変化だとされている。

そこで、再現されるかどうかを確認するために、
麻酔も睡眠薬も使用しないで生命維持中止を行う2人にBISモニターを装着してみたところ、
生命維持装置取り外し直後に、最初のケースと同様の大きな変化が出現した。
(2例目はDCDドナー候補、3例目は高齢でドナー対象外)

筋電図、心電図には変化がない状態で脳波だけが変化するケースもあった。
いずれの患者も脳死ではなかった。またいずれの患者も脳波が大きく変動している間に、
自発呼吸はもちろん身体がわずかでも動くということもなかった。

この現象をどのように考えるべきなのだろうか。

死を早める可能性があるためDCDプロトコルでは緩和薬の使用は認められないが
その一方、倫理的、道徳的な意味合いから、
死にゆく患者の苦痛を取り除くための介入は医師の判断で認められており、
DCDであるか否かを問わず、そのためには睡眠薬、麻酔薬の使用が適切ではないか。

この倫理問題を議論するためには、
終末期の患者の脳波の変動について、もっと研究がおこなわれ、
患者が死に至る過程についての理解を進めて
適切な対応が検討されなければならない。

(最初のケースで麻酔が使用されたとの記述はありません。
麻酔と関連するとされている変動だったので、再現性を確認するために、
さらに2つのケースでもBISを測定してみた、ということのようです)

3人のBISグラフが掲載されており、
いずれも生命維持停止直後に「跳ね上がっている」ことがはっきりと見て取れます。
上記リンクから、ぜひご確認ください。


読んで、ものすごく引っかかるのは
著者らはごく慎重に、心拍数との関連やノイズの影響の可能性に言及しているものの
言いたいことはどうやら「このBIS変動がいくらかでも意識がある可能性を意味するなら
DCDドナーの生命維持引き上げの際にも麻酔薬、睡眠薬を使用することが
道徳的・倫理的なのではないか」ということのように思われるのだけれど、

そもそもDCDプロトコルそのものに
「DCDドナーは本当に死んでいるのか」という倫理問題が議論されていることを考えたら

呼吸器取り外しで脳波が跳ね上がった……で問われるべきは
「DCDプロトコルそのものの倫理性」ではないの?

なんで「だからDCDドナーには苦しまないように麻酔を」になるの?


……と思ったら、
上記論文と一緒にいただいた論説にはもっとエゲツナイことが書かれていた。

こちらについては、次のエントリーで。


なお、この論文が取り上げている
終末期医療と臓器摘出との間にある倫理問題の相克についても、
臓器摘出の際の麻酔薬・沈静薬使用の問題についても、こちらの本に詳しい ↓
「脳死・臓器移植Q&A50 ドナーの立場からいのちを考える」メモ 1(2011/11/3)
「脳死・臓器移植Q&A50 ドナーの立場からいのちを考える」メモ 2(2011/11/3)