「わたしを離さないで」の世界は移植医療に代わる技術開発で回避できるか……という問いを考えてみた

臓器移植医療を批判している学者の方々の文章を読むと、
「じゃぁ移植をしなければ死んでしまう人に死ねと言うのか」
とのツッコミを予測して、あらかじめそれに応えておくかのように
「人工臓器の開発など、移植以外の方法で救う技術開発を急げ」と
書かれていることが多い。

そのことに共感しつつも、いつも漠然とわだかまるものを感じてきた。

この度、某MLでの映画「わたしを離さないで」を巡るやりとりの中で
John Harrisの論考についての拙ブログのエントリーを読んでくださった方(ここでは仮にAさん)から
以下のような趣旨の投稿があった。

不老不死を求めるのが人間の本能である限り
そこには人倫との抵触は避けられない問題があるが、
個別の問題には対応は可能なはずで、臓器移植の場合は
人工臓器の開発によって抜本的に問題を解決することはできる。

倫理学者は、是非の議論のどちらかに立って正当化を競うだけでなく、
そうした具体的な解決策を提言し、この映画に描かれているような
『人間家畜化』を回避する方向性を示すべきだ。

なおAさんは、
おそらく世の中の大半の医師よりも詳細な移植医療に関する専門知識・情報を持ち、
生体間であれ脳死者からであれ「倫理問題が生じることが分かっていることを
なぜ何十年も続けているか」という憤りを持って移植医療を批判しておられる方です。

読ませてもらううち、
上記の漠然としたわだかまりが最近このブログで考えてきたことと繋がって、
Aさんへのお返事として書いてみたのが以下。

臓器移植について言えば、Aさんのご投稿はおっしゃる通りだと思います。脳死臓器移植への批判の声を上げておられる学者の方々も、よく同様の方向で「対案」発言をしておられて、それにも共感します。

ただ、私はどうしても、臓器移植だけではなくて、もっと広い射程の問題として(例えばSomervilleのようにバイオテクノロジーの進歩が社会にもたらすもの全般の問題として、あるいは世界の産業・経済・金融の構造変化の中でバイオテクノロジーや「科学とテクノで簡単解決文化」や、その御用学問としての生命倫理学が担っている役割ともつながった問題として)考えたいと思っているので、臓器移植の文脈限定で「問題を抜本的に解決する」ということと、そうした「科学とテクノの簡単解決文化」が暴走ひとでなし金融(ついでに慈善)資本主義とがっちり噛み合ってしまった世界で「問題を抜本的に解決する」ということとの距離はかなり大きいし、後者が解決しない中で前者だけが解決するということはありえないんじゃないかという気がしてしまいます。

例えば、Aさんが書かれている「不老不死」を「自分と血の繋がった子どもを持ちたい」という欲求に置き換えて考えたら、生殖補助医療の文脈で同じことが言えるのだろうか、と、まず考えてみました。また、人間家畜化とか人体の資源化という意味では、例えば、生殖子の売買や代理母、胚や中絶胎児の実験利用、それから新薬やワクチン開発での治験に途上国の人たちや先進国の貧困層が医療アクセス確保の手段として参加させられていることも同じではないのだろうか、と考えてみました。そこにあるのは、「臓器移植しか助かる道がないとされている人たちを救うために臓器移植以外の方法があり、それが確立されれば解決できる」という技術レベルの問題を超えて、「生きるに値する人」としない人、「治療するに値する人」としない人、「科学とテクノの簡単解決文化を享受するべき人」と「そのための資源として使い捨てにされるべき人」との線引きが進んでいく世界のありようの問題、カズオ・イシグロがマダムに言わせていた「無慈悲で残酷な世界」の問題ではないかという気がします。もしそうだとしたら、Aさんが言われる臓器移植に変わる技術の開発においても、そのプロセスで家畜化・資源化された人間が利用されていくということにならないでしょうか。私にはHarrisの論考は「それでいいじゃないか。そんなのわずかなコラテラルダメージだ」と言っているように聞こえました。

実は、それらは既に医療や科学の問題というよりもグローバルな経済や金融の問題になっていることこそが、問題の本質なんじゃないでしょうか。「不老不死」は、例えば「ぴんぴんころり」PPK(この反対は「ねんねんころりNNK」だと先日取材先で初めて聞いてショックでした)や障害予防の新・優生思想までを含んで、本当は医療というよりもグローバルな経済・金融の文脈の中に置かれている。そういうものとして考えるべきなんじゃないか、という気がします。私はその非常に分かりやすい1例が「ワクチンの10年」だと考えています。

ちなみに、ちょっと横道にそれますが、不老不死や万能(スーパー人類)への欲望を満たして行くことが幸福への道だと信じて疑わないトランスヒューマニズムについて、私は一定のところから後は欲望への執着を解くことによってしか人間は幸福になれないのに人間観の浅薄な人たちだ、という感想を持っています。

どうも、うまく言えないのですが、そういうことを書いてみたエントリーを読んでもらった方が伝わるような気がするので、とりあえず4つばかりリンクしてみました。もしお暇がありましたら読んでいただけると幸いです。ただ、いずれも考えの「途上」に過ぎませんし、これからまだ考えたいことばかりなので、今後とも、刺激してもらえると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

生命倫理が「治外法権的な聖域なき議論の土俵」に思えてきた
事業仕分けの科学研究予算問題から考えること
ゲイツ財団がコークとマックに投資することの怪、そこから見えてくるもの
日本の「ワクチン産業ビジョンの要点」の怪



その後、これもリンクすればよかった、と思うエントリーが、以下 ↓