当ブログの原点:ネット・メディアとの2007年1月のやりとり

ブログを休止しているところなのですが、
当ブログの起源として、これは資料として残しておきたい……というものが出てきたので。

しばらく前にパソコンの故障で大量のデータが失われたために
紛失したとばかり思い込んでいた大事な資料が
なんと目立たないファイルの片隅に生き残っているのを発見。


2007年1月に日本でいち早くアシュリー事件を報じたネット・メディアにあった
「知的機能はすでに失われており」という記述を巡って
編集部に手紙を書き、やり取りした結果、
その記事が非表示になったという出来事がありました。

出てきたのは、そのときのやり取りの記録。

2007年の1月に、
まだ何の知識もなければ問題意識もなかった私が
素朴な疑問をストレートにぶつけているメールの文面を改めて読んでみると、
ここにすでに今回の『死の自己決定権のゆくえ』の第2章に繋がる疑問が見えていることに、
ちょっと息を飲むような気持ちになったので、
これはこのブログの資料として残したい、と思って。

まず、2007年1月26日に
私が初めてこのメディアの事務局に書いたメールが以下です。

○○に掲載されている「脳障害の少女の体を現在のまま”停止”に」という○○氏の記事ですが、その中の「脳の知的機能は既に失われており」という部分は、どこから来たものでしょうか。

両親のHPにも担当医師の論文にも、そんな記述はありません。

Ashleyについて「精神・認知の発達段階が生後3ヶ月から変わっていない」とは書かれていますが、そのほかにも、「家族が話しかけると喜んで微笑む」、「音楽が大好きで、好きな音楽を聴くとはしゃぐ」、「意識ははっきりしており、周囲のことは分かっている」、「家族を分かっていると思うが確信は持てない」、「 困ったことがあると助けが来るまでで泣き続ける」などの記述もあり、これらは決して「脳の知的機能は既に失われて」しまった子どもの姿ではありません。

どなたか、記者氏以外の方、できれば障害児・者の問題に詳しい方にご確認いただき、事実誤認が確認できれば、訂正していただければと思います。

この問題の議論は、Ashleyの障害像を先ず正確に理解した上でなければ、筋違いの方向に進む危険があります。


それに対して、数日後に記者の方ご本人の説明をコピペしたものが
編集部からお返事として送られてきました。

それを読み、2月8日に私が編集部に返したお返事が以下。

編集長様

メールありがとうございました。
いただいたお返事の中にも、ずいぶん事実誤認があるように思います。
 
①アシュリーの成長が止まったとされているのは、生後3週間ではなく、生後3ヶ月です。記者氏ご本人が添付されている英文を読んでみてください。

② 両親のブログでは生後3ヶ月で知的機能の発達が止まったと書かれていますが、CNNの1月12日のインタビューで、担当医のDr.Diekemaはアシュリーの認知・知的機能は生後6ヶ月相当と言っています。

③「脳が損傷されている」ということは、「知的機能は失われている」と同じではありません。脳損傷によって身体機能の障害があっても、知的機能は完全な人もいます。「脳が損傷されているから知的機能は失われている」というのは、障害に関する知識を欠いた人の短絡的な思い込みではありませんか。

④原因不明の脳損傷があり、それが機能障害を起こしているのであって、アシュリーは「難病」ではありません。障害は病気ではありません。

⑤以下に、両親のブログからアシュリーの状態についての記述を抜き出してみます。果たしてこれが「知的機能が既に失われた」子どもの状態かどうか、編集長様ご自身でご検討ください。

(省略しますが、父親のブログに書かれたアシュリーの障害像に関する部分をここに箇条書き。
その内容の概要はこちらのエントリーに ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/8651548.html)
 
私は、アシュリーに障害像が非常に似ている重症児の母親ですが、私の子どもを含め、いわゆる重症心身障害児といわれる子どもたちは、決して植物状態にあるわけではありません。アシュリーも、上記記述からお分かりのように、医学的に植物状態とは言えません。にもかかわらず、記者氏の不用意な記述によって、日本ではアシュリーの障害像が誤って伝わっており、議論を筋違いの方向に誘導される可能性があることに、私は非常に大きな懸念を抱えております。

現実に、ある大学の生命倫理の講義の中で、記者氏の記事が資料として使われて、この問題の是非が議論され、「やむを得ない」との意見を述べた学生が自分の意見の根拠として、「知的機能が既に失われていると書いてあるから」とこの部分を引用するということがありま した。この講義を担当した先生に上記記述をお渡ししたところ、「自分も誤解していた。もう一度アシュリーの障害像を正しく捉えなおさなければならない」と、次の講義で訂正されたとのこと。

総合的に書くのだとおっしゃるのは分かりますが、それが正確でないことの正当化にはならないのではないでしょうか。特に、専門的な知識を必要とする分野であればあるだけ、記者の方の思い込みや先入観で事実と異なった記述が出てくることは、非常に危険なことではないでしょうか。

記者氏がおっしゃっているように、この論争は続いており、1月26日にはピーター・シンガーニューヨークタイムズの特集に挑発的な文章を書きました。それに対する反論もいくつか出ています。今後も論じられていくと思いますが、それだけに、日本でもアシュリーの障害像が先ずは正しく伝えられることが非常に大切になってきます。

上記のことを編集部としてご検討いただいたうえで、記者氏からではなく、編集部としてお返事いただきたいのですが、記者氏の「知的機能が既に失われているとの表現は、そう一線を踏み外したものとは考えていない」との見解は、事務局としても支持されるのでしょうか。


これに対して、2日後に編集長から、
医学的な見解をまとめ直した上で記事を修正するのでは時間がかかるし
議論をする上で正確でない情報を伝えてしまうことは本意ではなく、
編集部での検討中にも公開されていることの影響がありそうだと、
いただいた指摘から判断されるので、緊急的に非表示にする、
という趣旨のお返事が届きました。

数少ない詳細な記事だったので
私としては訂正した上で残してほしかったのですが、
編集部の対応は誠実だったと思います。

そして、このときのやり取りを通して、
「ミュウやアシュリーのような重症児者は『どうせ何も分からない人(子)』でしかないか」との問いを
私は獲得したのだと思います。

その問いはその後の様々な問題意識の根っこにあり続け、
そこから生じた数々のぐるぐるが、このたびの拙著
『死の自己決定権のゆくえ―尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』
第2章の考察へと深まっていったのだと思います。

当ブログの原点が、ここにありました。