筋ジスのジャーナリスト「死の“自己選択”は幻想」

MA州で自殺幇助合法化をめぐる住民投票が行われる日(6日)が近づいて
メディアでは議論が沸騰しているけれど、
NYTで筋ジスのジャーナリストのBen Mattlinが、
自己選択は幻想にすぎないと体験を踏まえた重みのある論考を寄せている。

冷静でありながら思いのこもった文章で、できれば全訳したいくらいなのだけれど
そうもいかないので、かいつまんで以下に。

著者は生まれつきの筋ジスで
子どもの頃から歩けず、立てず、両手もあまり使えない。
この症状だと通常は2歳までには死ぬ病気だと言われていたが
6歳の時に劇的に進行が止まり、現在50歳で、
「私は夫であり父でありジャーナリストであり作家でもある」。

とはいえこの歳になると衰えてきて
鉛筆も持てないから口述筆記で原稿を書いているし、
飲み食いは一口ごとに闘いの様相を呈してきた(故多田富雄さんを思い出します)。

数年前に手術を受けて医療ミスから意識不明になった時には
医師らは延命に価値があるのかを検討した、という。
「私の家族のことも私の仕事のことも今後やりたいことも知らないまま」
生きているだけで苦しそうだから、と医師らは考えたようだった。

意見を求められた妻が「あらゆる手を尽くして」と説得してくれて
今の彼がある。

このエピソードから著者は
「医師でさえも、というか医師ならでは特に、誰かのQOLについて
低すぎて生きるに値しないと安易に考えてしまうということを知った」という。

自分のような患者は医療の失敗例でしかないのだろうけれど、
それは理解が足りないというものだ。なぜなら
「私はただの診断名や予後以上の存在」だから。

でももっと見えにくい形の教唆だってある。

愛する家族の目に浮かぶ疲労の色を見たり、
自分のいるところで深刻な病状に看護師や友人がついため息をついたり
そんなちょっとした出来事で楽天的な患者だって気持ちがウツっぽく沈むことはある。

上記のような姿勢の臨床医なら、それを
生きるに値しない生への絶望であり、絶望するのが合理的だと
解釈してしまうかもしれない。

生きるための支援の選択肢が十分でないことを考えれば、
実際、それが合理的な選択肢なのかもしれない。

でも、それこそが自己選択が幻想だということではないのか。
自分がおかれた現実とまったく関係なしに自殺を選択する人がどこにいるだろう?
誰からもいてほしいと望まれていないパーティで
帰ろうとしない人がどこにいるだろう?

合法化推進派は、セーフガードは十分だ、すべり坂は起こらない、自己選択だというけれど、
DVも児童虐待も高齢者虐待も表面化しないケースは多い。
それでもMA州では2010年だけでも高齢者虐待は約2万件報告されているのだ。

医師が処方した薬を飲むのは本人だから大丈夫だ、
私のように自分で飲むことができない人の安全は守られているというけれど、
法律には、本人が飲みこんだことを確認することは義務づけられていない。
飲む場面に誰かが立ちあい確認することは求められていないのだ。
私にはこれはさらなる虐待の温床と見える。

最後に、著者は、

確かに「幇助死」の提案の背景にある意図は尊いものだ。しかし、なぜ死ぬ権利がそんなにも急がれなければならないのかが私には気になってしまう。私たちのように重症で、治すことができない、命にかかわる病気や障害のある人たちが、他のみんなと同じように心から歓迎され心からの敬意を持って遇され機会を与えられる社会では未だないというのに。


Suicide by Choice? Not So Fast
Ben Mattlin
NYT, October 31, 2012



著者が指摘している
「処方された人が薬を飲む場に医療職が立ちあっていない」という問題は
これまでもオレゴンとワシントンの尊厳死法で指摘されてきました。



私も、この問題では、家族介護は密室だということを
よく考えないといけないと思うし、

自殺幇助が虐待に繋がる懸念については
私も10月1日のシノドスの論考でちょっと書きました。

それから、医療が捉えるQOL
そのQOLを現に生きている本人の捉え方とには開きがあること、

後者は揺らぐものであるということも
著者が指摘している通りと思います。