「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilkinson 1

先週、英国医師会が提言した「選択的人工呼吸 elective ventilation EV」については
どうも去年の暮れにNICEも新しいガイドラインで認めていたようですが、
相次ぐ動きに、英国メディアでも論争となっているようです。

EVへの批判の中心は当たり前ながら
「患者の自己決定権」に反する、というものらしく、

Savulescuと一緒に「臓器提供安楽死」や「人為的脳死後臓器提供」を説いたWilkinsonが
Oxford大学の実践倫理ブログで、2つのエントリーを書き、この問題を論じています。

Back from the grave: Should we allow Elective Ventilation?
PRACTICAL ETHICS, U. of Oxford, February 13, 2012



読んでみると、英国医師会の提言のニュースを読んだ際の印象とは
EVの内容が多少違うので(私には結局は同じに思えるけど)、その点も含めて。

まず、あらかじめ指摘しておきたいこととして、
英語圏の医療用語としてのelective とは、
患者に医療上の必要が差し迫っていない医療行為をいうので、
ここでは「患者本人に利益のない」介入であることがelectiveと称されているわけですが、
それ自体がまず、えらくご都合主義の言い換えだなぁ、という気がします。

Wilkinsonは、その字面の「選択的」の意味を利用して
2つ目のエントリーのタイトルを「選択的なものにすべきではない」としており、
それは「つまり義務付けよ」と主張しているわけです。

EVとは、NICEの定義するところによれば、

Elective Ventilation (EV): The provision or continuation of life-sustaining treatment for a patient who would otherwise be allowed to die, until such time as their wishes about organ donation (if they expressed any) can be determined.

選択的人工呼吸(EV):患者の臓器提供の希望を(意思表示があったとすれば)確認できるまでの間、他の状況下では死ぬのを許される状態の患者に生命維持治療を提供するまたは続行すること。

Wilkinsonによれば、その反対はSQV(Status Quo Ventilation)で、

Status Quo Ventilation (SQV): The discontinuation or non-provision of life-sustaining treatment for a patient as soon as it is genuinely believed that it provides no medical benefit, regardless of whether their wishes about organ donation are known.

現状?人工呼吸: 患者の臓器提供の意思が分かっているかいないかに関わらず、延命治療には医学上の利益がないと誠実に判断された場合には、人工呼吸を中止する、または差し控えること。


うぉぉ……と思うのは、
前者の「死ぬのを許される」という表現しかり、
後者のSQVですら“無益な治療”の一方的な停止が織り込まれている点で、
現行の医療現場で問題となっている生命倫理の議論よりも
先を行っているように思えるのだけれど、

それでもWilkinsonは
SQVを「無駄の多い人工呼吸 wasteful ventilation」と呼びたいという。
「無駄の多い」とは、もちろん「臓器を無駄にすることが多い」の意でしょう。

ともあれ、これまでSQVが前提だった現場に
今回の提言でEVが持ち込まれた場合に、
実際にはどのような違いが出てくるのか。

それを説明すべく最初のエントリーの冒頭で持ち出されているのは
脳内出血で倒れて、病院に運ばれた時にはすでに手の施しようがない
62歳のMaryさんの仮想ケース。

これまでなら
臨床的脳死には至っていないものの
利益は見込めないので外科手術の適用にはならず、
回復の見込みもないためICUでの集中治療の適用ともならない。

しかし、今回の提言でEVが導入されると

Maryさんは、ICUに運ばれ、
いくつものチューブが入れられ、人工呼吸器や血圧計がつけられて、
そのまま臓器提供に関する家族の意思確認が待たれることになる。

家族となかなか連絡が取れなかったり、決断に時間がかかったりしていると、
Maryさんはその間に脳死状態に陥る可能性もある。
脳死となれば、controlled circumstancesで集中治療は中止される。

(Controlled cicumstances とは、この場合、DCDのプロトコル下で
手術室へ運び摘出の直前まで上記の臓器保存目的の介入が続けられる、との意では)

一方、もし家族が提供を拒否すれば、ICUで生命維持は停止される。


ここまでを読んで、私がすごく気になるのは
Maryさんが脳死にならないまま家族が臓器提供を決断した場合には
その集中治療はどうなるのか、という点をWilkinsonが全く説明していないこと。

「本人にとっては無益」とされたはずの介入が
臓器提供の意思確認の為だけに開始されたわけだけれど、
意思を確認し目的を果たしたからといって、
その段階で停止されるだろうか?

行われている「意思確認目的の介入」は
臓器提供になる場合にはそのまま「臓器保存」の機能も果たしてきたことになるわけで、
ここへきて、意思確認という目的を果たしたからといって
わざわざ臓器の鮮度を下げるのがわかっていながら中止するとは思えない。

それならば家族が同意した臓器の種類にもよるかもしれないけれど、
「提供意思を尊重するために」脳死の場合と同じく
Controlled circumstancesにおいて中止されることになるのでは?

そうであるならば、
「臓器提供意思のある人からその機会を奪わないために」
「家族の意思確認のためのEV」とは、実際は
「臓器摘出の直前まで臓器の鮮度を保つこと」を目的としたもの、
ということになるのでは?



この後に続くWilkinsonの義務付け論の内容については
(次のエントリー)で。