「臓器提供の機会確保のための人工呼吸、義務付けよ」とWilkinson 2

前のエントリーからの続きです)

Elective Ventilation について、Wilkinsonの主張のキモは
「自己決定権の侵害には当たらない。むしろ自己決定権の尊重である」との論旨。

彼の論理の展開は4段階で、

EVもSQVもいずれも一部の患者の自己決定を侵害するので、
自己決定論では解決にならない。

EVは、臓器提供をしたくない患者、
また臓器提供のための生命維持をされたくない患者の自己決定を侵害する。

SQVは、臓器提供を望んでいて
自分の臓器を無駄にされたくない患者の自己決定を侵害する。

英国を含め多くの国でマジョリティが臓器提供を望んでいるとすれば
SQVの方でより多くの患者の自己決定が侵害されることになるのだから
EVを選ぶことによって、この議論は「民主的に解決」できる。

③ また、上記の侵害による影響の大きさも違う。

EVで自己決定権を侵害される患者は、意に反した人工呼吸をされるが
十分な沈静と沈痛を行われるのだし、大した期間でもないのだから
それによって失うものはないが、

SQVで自己決定を侵害される患者は、
一人で最大7人もの命を救うという有徳の行為の機会を逃し
貴重な臓器を無駄にされるのだから失うものがはるかに大きい。

大切なことは本人に選択の機会を与えること。

(たとえばレストランで友達より先に到着して、
友達が頼むメニューが分かっていれば先に頼んでおくこともできるけど、
やっぱり電話をかけるか、本人が来るまで待ったりするように
大事なのは本人に選択の機会を与えること)

臓器を提供するか、しないかの選択は
本人にさせるべき重大なものであり、
医師が勝手に決められるものではないのだから、

それほど大事な選択の機会を保障するためのEVは
医師の判断で選択的に行われるべきではない。
必ず行われるデフォルトにすべきである。


言いたいことが山ほどあるような気がするのですが、
とりあえず言いたいことの糸があまりに沢山あって絡まり合っているので、
すぐにパパッと言葉になる2点についてのみ、以下に。

① 「無益な治療は一方的な医療サイドの判断で中止・差し控えるべきもの」との
患者の自己決定権を顧みない“無益な治療”論がここでの議論の前提となっている。

それは一方的なDNR指定を巡る問題として英国でも
また「無益な治療」法のあり方を巡って米国でも
まだ生命倫理の議論が行われているところであり、
Wilkinsonの議論は現状をさらに進めてしまったところからスタートしているのでは?

Wilkinson自身は、Savulescuと一緒に
「臓器提供安楽死」「人為的脳死後臓器提供」を提唱した(2010)他にも
これまで以下のようなことを主張してきているので、


自分たちとしては既に“無益な治療”の一方的停止はデフォルトだと考えている、
または、そう考えているフリをして、今だ議論の余地が残る問題を勝手に解決してしまい、
知らん顔でEVを巡る議論の前提として織り込むという、
かなり厚顔なことをやっているのでは?

ちょうどアシュリー事件のDiekemaやFostが
「重症児だからやってもいい」かどうかが議論における最大の論点でありながら
いくつかの論文を書いて正当化するうちに、いつのまにか
「重症児にしかやらないのだから構わない」と論点そのものを勝手に解決し
知らん顔で正当化の前提に織り込むという不誠実な手段を使っていたように?


② 一番ムカつくのは
「EVで自己決定権を侵害される患者は、意に反した人工呼吸をされるが
十分な沈静と沈痛を行われるのだし、大した期間でもないのだから
それによって失うものはない」とシレっと書いている点。

これは、2007年当時の「無益な治療」議論で
「無益な治療が本人に苦痛を強いている」との治療中止正当化に対して
「十分な沈静と沈痛で本人の苦痛はないし、大した期間でもないのだからコストも大きくはない」として
出て来ていた反論の典型ではないか。

その反論を押しのけて正当化してきたはずの
「無益な治療の一方的な中止または差し控え」の上に乗っかって
「患者にとっては明らかに“無益な”介入を臓器目的でのみ義務付けろ」と主張しつつ、
その論拠に、その土台そのものを否定する指摘を持ち出してくる……?

もしもWilkinsonが「終末期の患者の人工呼吸は
十分な沈静と沈痛が行われれば本人への害にはならない」と主張するのなら
いま一度“無益な治療”の一方的な停止・差し控えを巡る議論に立ち返るべきでは?


この人がSavulescuと書いた「臓器提供安楽死」論文については、↓