英国では07年に重症児の子宮摘出要望もう1つ却下:英米を分ける司法の関与

2007年にAshley療法論争が英国に飛び火したKatie Thorpe事件については
当ブログでも詳しく追いかけましたが(詳細は「英国Katieのケース」の書庫に)

当時、英国では9歳の重症児Oliviaの母親Kim Walkerさんも
リバプールのAlder Hey 子ども病院に子宮摘出の要望を出していたとのこと。

以下の記事によると、
病院のスポークスパーソンが
その子宮摘出を行う予定はない、
そうした手術は子どもの福祉をあらゆる方面から検討し
すべての選択肢を試みた後でなければ行わない、と語っているので、

要望は却下されたものと思われます。

Give my child a hysterectomy
ECHO, October 9, 2007


これまで全く知らなかった、この事件について分かったのは、

今回のHCRの成長抑制論文を機に、
07年10月当時、Katie Thorpe事件と合わせて批判したエントリーを再掲してくれた
英国の障害当事者の方のブログから。↓

Never Neverland
BENEFIT SCROUNGING SCUM, December 1, 2010


冒頭、
Ashley事件とKatie事件を分かったのは司法の関与だったとの分析が印象的。

私も昨日のエントリーを書きながら
Wilfond医師が「我々の論文をどう扱うかは病院や団体次第」とか
「医療職に向けプラクティカルな指針を作りたかった」などと述べているのを読み、
策を弄してテキトーな表向きの理屈さえ取り繕えば、あとは「やったもん勝ち」になってしまう
米国の医療の恐ろしさを、つくづく感じたところだった。

だからこそ、これまで障害者に対して医療が行って来た非道に照らして、
法によるセーフガードは必要なのだと改めて考えるのだけれど、

また、逆に言えば、それだからこそ、
あらたな“科学とテクノによる簡単解決”文化の勢いに後押しされて
法の束縛から自由になろうとしているFostら一部の生命倫理学者ら
Ashley事件と成長抑制の一般化を、医療を司法から独立させる一里塚と捉えているのでは?

もちろんAshleyケースでの真実の隠ぺいや父親の意図への追随の必要は彼らにあるのだとしても、
ここまできたら、それとは別に、Fostら自身の目的もそこには潜んでいるがゆえに、
実際は大病院の医師らが熱を入れて提唱するほど大した“医療”とも思えない
“成長抑制”の一般化にこれほどまでに熱心なのかも?

では、重症児への成長抑制一般化は、
これまでの法の束縛から医療現場を開放し、「QOLの維持向上」を錦の御旗に
“科学とテクノの簡単解決”文化で障害児・者に手を加えて行くべく
「重症障害児・者は別」というところに、まず線引きをするための、
米国生命倫理の最初の突破口なのか――?

でも、その線は、いったん引かれてしまったら、動く。動き続ける。ゼッタイに――。




当ブログがA事件の筋書きを書いた人物ではないかと目しているNorman Fostの
「医療に司法の介入は無用」との持論については、以下のエントリーなどに。



もしかしたら、重症児の成長抑制で地ならしをして、
Fostの”本丸”は、障害のある新生児の「無益な治療」論一般化なのか――?