Quinlan事件からAshley事件を考える 4 :Q判決後と A事件との類似

4.クインラン事件 「第2の物語」 (1~4の4)

NJ州最高裁の判決後、しかし病院は呼吸器の取り外しを拒否。
徐々に慣らして「乳離れ」を行い、カレンは完全な自発呼吸を開始する。

すると病院は態度を一変して退院を迫り、
カレンは6月にナーシングホームに移る。

その後1985年6月13日肺炎で息を引き取るまでの約10年間、
家族や施設の「通常以上の看護と援助ケア」が続き、
カレンは遷延性植物状態のまま生きる。」

マーク・シーグラーは
第1の物語を「見知らぬ者の医療」
第2の物語を「親しい仲間の医療」を象徴する、と。

(この医療の分類には、いろいろ考えさせられます。
例えば、「治す医療」と「支える医療」とか、医療と生活との関係とか……)

両親は1980年に「カレン・アン・クインラン希望センター」を設立し、
NJ州に2か所のホスピスを開設。

カレンの父親ジョセフは「……強調すべきはケアであって、治癒ではありません。
愛情ある援助が機械的援助よりも重要なのです」と。


       ―――――――

アームストロングの戦略や、事件への世論の反応が
そのままAshley事件の正当化論、擁護論に重なっていくことに、
次々に驚かされながら本書を読んだ。

最も大きく印象に残ったのは、
高裁で検察の一人が指摘した事実で、

カレンの父親がカレンから呼吸器をはずしてやりたかったら、
最も迅速・確実にそれが出来る方法は訴訟を起こすことではなく、
呼吸器をはずしてくれる病院を探して転院することだった、と。

Ashley事件ではシアトルこども病院のWilfond医師が
もともと胃ろうの重症児の体重管理なら家庭でのカロリー調整で可能なのだが、
この事件では家族が医療職の関与を求めたことが特徴だと述べている。

Ashleyの父親がMicrosoftの役員であるとすれば、
娘専属の看護師でも介護師でもセラピストでも何人もつけられる経済力があり、
AshleyのQOLの維持向上は、家庭内での介護の人員を必要なだけ増やすことで可能なはず。

どちらも、1つの家庭の中での問題解決だけを求めるならば
わざわざラディカルな行動を起こして世論に訴えることをせずとも
どちらのケースにも家庭内で解決の選択肢はあった、という事実――。

A事件でも
子どもの医療については親のプライバシー権の範囲内だとの擁護論は多かったけれど、
上記事実からも、コトの本質が親のプライバシー権にないことは明らかと思われ、

(spitzibara仮説では、シアトルこども病院は2004年に、
Ashleyにおいてのみ特例的に親のプライバシー権を認め、
それが一般化されることがないように水面下にとどめる判断をしたのだと考えます)

むしろプライバシー権を議論の表看板に据えつつ
実はプライバシー権を超えた問題提起をすることに
クインラン事件での訴訟の意味も
敢えてラディカルな成長抑制を実施・公開したAshley父の行動の意味も、あったのでは?

それは高裁で検察側が指摘しているように
コトがクインランという1つの家族を巡る権利の問題ではなく、多くの人の権利の問題であり、
Ashleyという一人の重症児の権利の問題ではなく、
すべての重症児・障害者の権利の問題である、ということなのだけれど、

しかし、それだからこそ、その事実を見えなくするために、またその結果として、
どちらの事件でも次の6つのことが行われていると思う。

クインラン事件のアームストロング弁護士もA事件のDiekema医師も
問題を「家族の愛と信仰と勇気」の問題に矮小化し、感情に訴えて世論を誘導した。

遷延性植物状態のカレンには脳死状態だと事実に反する主張がなされ、
 重症障害児のAshleyには遷延性植物状態と誤解させる表現が多用されたり、
重症児は何も分からない赤ん坊と同じだというイメージ操作が行われた。
 
どちらの事件でも、重症障害がある外見が「グロテスク」だと繰り返し語られて、
言外に「われわれと同じ人間ではない」と印象付けられていく。
つまり、そこに線引き・切り離しが行われていく。

ちなみに、前のエントリーに出てきている「無脳症のモンスター」の意味を当時は知らなかったので
エントリーの文中では使っていませんが、07年のシアトルこども病院生命倫理カンファで、
重症新生児の救命を「無益な治療」概念で否定する際に、
Norman Fostは「無脳症のモンスター」という言葉を使い、無脳症児を例にあげました。

カレンが「医学の進歩が死期に創出する終末期のモンスター」として描かれたのだとすれば、
Ashleyは「医学の進歩が出生時の救命で創出する重症障害のモンスター」として描かれて、

クインラン事件が植物状態の人からの呼吸器の取り外しの容認への分水嶺となったのだとしたら
Ashley事件は障害新生児の救命差し控えや停止、それ以前の遺伝子診断などの新・優生思想と、
それでも自己選択で生み育てることを選択するなら介護を親の自己責任とする福祉切り捨てへの
分水嶺とまでは言わなくとも、一里塚くらいにはなっていくのかもしれない。

クインラン事件で
通常の医療か通常でないかの判断は患者の認知レベルによって分かれるが
治療の拒否権があることに患者の認知レベルは影響しないというダブルスタンダード
最善の利益論による代理決定を正当化しているのは、

権利・尊厳の侵害や背が高いことの利益を、Ashleyの認知レベルの低さを理由に否定しつつ
QOLの高さや親にケアされることが幸せだと主張する点では認知レベルの低さを問題にしないという
ダブルスタンダードを用いた「害とリスク」と「利益」による最善の利益で
Ashleyケースの医療介入が正当化されていることと並行する。

このシリーズの2つ目のエントリーで引用した部分(以下に再掲)に書かれているように、

脳死はカレンの満たすことのない死の定義である。しかし、そのことを示すために反復される詳細な議論は、読む者に原告側の主張に対するたんなる論駁以上の印象を残す。脳死概念が、いまだそれを人の死とする法の成立していないニュージャージー州においても、確かな法的地位を既に獲得しているという印象である。しかし、実際には、事実は逆だというべきである。そうして倦むことなく繰り返される議論が脳死概念の社会的需要そのものを創出するのである。
(P.66)


クインラン事件で論争が起こり、続けられること、そのものによって、
未だに法制化されていない脳死概念が法的地位を既に獲得しているような印象を与え、
世論が脳死概念の法制化への受容の土壌を創り出したように、

Ashley事件でも、論争が続いていることによって、
“Ashley療法”・成長抑制療法は未だに倫理的に正当化されていないにも関わらず、
特に医療職と重症児の親を中心に社会の人々がその考えに馴染み、抵抗を薄れさせていく。

英国のKatie事件がAshley事件ほどの衝撃を持って受け止められなかったように、
オーストラリアのAngela事件に至っては、もはや誰も大した興味を持たないように、
重症児の“QOL向上のための”身体の侵襲は徐々に受け入れられ、
正当な根拠なしに、医療の中に位置づけられようとしている。

2007年の論争当時に、米国のメディアが本来の機能を果たしていれば、
論争のテーマは「“Ashley療法”の倫理的妥当性」ではなく
「シアトルこども病院の倫理委員会がしかるべく機能したかどうか」になったはずで、

そうすれば、クインラン事件の州最高裁が出した
医療職に権限を委譲し、セーフガードとして倫理委員会を利用する、という提案の、
その倫理委員会に政治的ぜい弱性があることを
Ashley事件こそが、あぶり出すことが出来たはずだったのだけれど。

「かけ離れた権利が結び付けられるというねじれによって」
歴史的な分水嶺としての意味を獲得していく」。

癌の叔母に関しての発言を根拠とするカレン自身の医療を拒否するプライバシー権
実は成人したカレンには及ばないはずの家族のプライバシー権とが、
無理やりに家族の愛情神話で情緒的にごまかされて結び付けられてしまい、
世論の同情と涙のうちに、いつのまにか司法にすら政治的配慮が働いて
OKにされていくマジックは、

子どもの医療を巡る親のプライバシー権については、
特に知的障害者に対する侵襲度の高い医療は例外とされており、
身体の統合性に対するAshley本人の権利が守られるための
然るべき意思決定プロセスには一定のスタンダードが設けられているにもかかわらず、
親の愛情と、赤ちゃんと同じ重症児が愛情深い親の腕に抱かれケアされるイメージによって
メディアにも操作が行われ、いつのまにか世論が誘導され、
Angela事件では豪の司法までが操作されたかとすら思われるマジックとそっくり。

でも、①から⑤によって世論が情緒的に盛り上げられているので、
そのマジックが見破られにくくなっていることもまた、共通項。

A事件では操作が米国内にとどまらず、グローバルに及んでいることは
時代の違いを象徴していると言えるでしょうか。