Diekema & Fost 論文を読む 6:司法の否定

「反論25」で取り上げられている最後の批判の論点は
これほど重大な医療決定では、裁判所の判断が必要」。

しかし、これは、もともと2007年5月の記者会見で
病院側が公式に違法性を認めた点です。

それを改めて論駁して「裁判所の判断は無用」とまで主張するのだから、Diekema医師は
あの時点での「内部のコミュニケーションにミスがあったため」との病院の言い訳を全否定して、
ミスではなく、違法と知りつつ意図的に裁判所を無視したことを認めるわけですね。

なんという大胆さでしょう。
病院の公式見解を否定するのみならず、州法まで否定してかかろうというのだから。

Ashley事件の範囲でみると、これは、もう、カンペキに支離滅裂の域ですが、
しかし「医療の専門性は司法から独立したもの。裁判所が口を出すな」というのは
実はFost医師のかねてからの持論なのです。

そのあたりが、何とも不気味。

とりあえず著者らの反論を眺めてみます。

ここでも著者らは最初にまず論理を反転して論点を摩り替えています。

「親は延命の判断も含め、日常的に子どもに関する医療決定を行っている。
批判する人たちは、子どもの障害を根拠に裁判所の判断を仰げという以上、
障害児の医療決定はすべて裁判所の判断を仰げというつもりか」

(誰も、そんなことは言っていません。

強制的不妊手術をはじめ、
障害児の尊厳と身体の統合性に影響する侵襲度の高い医療についての話であって、
延命の話でもなければ障害児の医療一般の話でもないことくらい
あなた方以外は、みんな理解できているし、

第一、「そういう医療だけは別枠ですよ」というのは、
ワシントン大学のインフォームドマニュアルにも、ちゃんと書いてあったことなんですけど?)

そうして論点を摩り替えたうえで、

「もしも障害児の親がこうした判断に足りるだけ信頼できないなら、
全ての子どもで延命の判断など重要な判断で親を信頼することなど出来ない」。

なんだ、そりゃ?

各論批判は、わざと総論的に曲解して反撃する。
総論批判は、あえて各論に持ち込んで反撃する。
そのいずれも出来ない時には、まるきり話を摩り替える。
後ろめたいことのある人の詭弁の常套手段ですね。

しかし、実はここでDiekema医師は、とんでもない失態をしでかしているのです。
(この人はウソにウソを重ねてしゃべるので、前から、つい自ら“語るに落ちる”癖がある。
私がspitzibara仮説にたどり着いたのは、この人の、この癖のおかげでもある)

While there is some legal basis for claiming that court review should be required for involuntary sterilization (Diekema 2003), there is no coherent legal or policy rationale for court review of growth attenuation.

と書いている部分。

ご当人にすれば、
「子宮摘出ならともかく成長抑制には裁判所の判断を仰ぐ法的根拠など、ないっ」と
威勢よく突っぱねてみせたつもりでしょうが、

なんともマヌケなことに、
「強制的不妊手術には裁判所の検討が必要だと主張する法的根拠がある」と
自分自身が2003年の論文で書いたことを認めているのです。

この点は、既に去年8月にこちらのエントリーで指摘したとおり、
その論文が2003年に書かれているところがミソで、

Ashleyケースが検討された2004年の5月時点で
Diekema医師にはAshleyの子宮摘出には裁判所の命令が必要だとの認識があったことを
自分で証明してしまいました。

また、病院が記者会見して違法性を認めた際の彼自身の以下の発言とも
この箇所は、まるきり矛盾します。

ワシントン州法は、子宮摘出に裁判所の同意が必要かどうかについては明確でない」
(07年5月8日 CNN)

「弁護士ならぬ身としては、(父親の弁護士の)意見で十分だと考えたのです」
(07年5月9日 Seattle Post-Intelligencer)


――で、反論その2。

ここは、おおむね、こんな感じ。

裁判所の判断を仰いだところで、
裁判官の判断が倫理委の判断よりも正しいという保障がどこにあるのか。

裁判官というのは一人だから、それだけ
個人的な偏見や利益団体、政治的配慮の影響を受けやすいし、
おまけに医療の知識も当該家族の事情にも疎い。

それに引き換え倫理委員会というのは多様な背景を持つ複数の人間の集まりなのだから
障害児を保護するためには、倫理委員会の方が信頼できるはずだろう。

こんな理屈を持ってきた日にゃ、
知的障害者の強制的不妊手術はもちろん、どんな医療判断においても
裁判所の命令はまったく意味を成さないことになってしまいますが、

この論文がこれまでと一番違っている点は、
子宮摘出における裁判所の命令の欠如を巡って
これまでの「知らなかった」説の“言い訳”から“司法不用説”へと
積極的に踏み出したことでしょう。

そして、おそらく、この部分には、単にAshleyケースの正当化を超えた
重大な狙いが潜んでいるのではないか、という気がします。

なぜなら、著者らがFost医師の1992年の論文を論拠に上げているように、
ここに書かれているのはFost医師のかねての持論そのものだからです。

「裁判所には医療に口を挟む資格はない。
どうせ裁判所は意見を述べるだけで強制力などないし、
ライアビリティを問われて有罪になった医師は一人もいないのだから
裁判所になど行くな。医療判断は医師がその専門性にのっとって行う」

2007年のシアトル子ども病院生命倫理カンファで、Fostはそう言って
カンファに出席した医師らに檄を飛ばしました。

そこで論じられていたのは主に重症障害新生児への「無益な治療」の差し控えであり中止。
「重症障害児にはQOLの意味すらわからないじゃないか」と、せせら笑いながら、ね。

もともとFost医師は先鋭的な「無益な治療」論者です。
しかも、彼の「無益な治療」論とは、治療の有益・無益を論じるものではなく、患者の有益・無益を論じるもの。

「反論25」は最後に、
「倫理委員会はもともと障害児の命を守るために作られたものであり、
 倫理委員会が普及して後、障害を理由に命に関わる差別がなくなったのだ」
との主張を1992年のFostの論文から引っ張ってきて、以下のように結論します。

病院倫理委員会には信頼して障害児の利益を代表することを任せられないという主張、または倫理委よりも裁判所のほうが効果的な監督が出来るとの主張は、いずれもエビデンスに裏付けられておらず、現在のエビデンスに反する。

しかしFost医師が2007年に生命倫理カンファで主張していたことには
実はこの論文に書かれている以上の内容が含まれているのです。

「倫理委が普及して障害児の命が守られるようになったとはいえ、
そこにコストが関わっている以上、家族や社会のことも考えなければならない。
QOLの意味すら分からない障害児への医療コストなど、社会が認めるはずもない。
医療については裁判所の関与は不要で、医師が決めればよいこと。
本人の利益を代弁させろというなら、倫理委に地域の人間を1人か2人入れておけばよい」

つまり、
「倫理委が出来て助けられるようになったとはいえ、
元はといえば障害児はみんな殺されていたのだから、
倫理委で適当に形を取り繕って、障害児への無益な治療はやらないでいい」
というのがFost医師の真意。

詳細はこちらにまとめてあります。(病院のWebcastで聞くこともできます。)
生命倫理カンファレンス(Fost講演 2)(2007/8/25)
Fostのゴーマン全開3日午前のパネル(2007/9/12)


Fost医師は、Ashley事件の正当化に留まらず、
この論争を通じて、医療を司法の縛りから開放しようとたくらんでいる──。

科学とテクノは法の束縛から自由になろうと、駄々をこね始めていて
生命倫理という学問が、その走狗になっていることを考えると、

その関係は、ちょうどAshley父とFost医師・Diekema医師の関係と同じような──。