シアトル子ども病院が創作したオレオレ詐欺的物語

シアトル子ども病院が今年1月に行った成長抑制シンポジウムのWebcastから
まず冒頭のWilfond医師の概要説明のプレゼンを聞いてみた。

 

これは詐欺師の話と同じだなぁ……と思う。

 

Ashleyケースについては当院では当初から public engagementを旨としてきました。

そもそもGunther, Diekema 両医師が2006年秋に論文を発表したのも、そのためでした。

ご存知のように、その直後にはご両親がブログを立ち上げて、
さらに一般に議論を広めてくださいました。

次いで、我々は2007年5月にシンポジウムを行いました。
このシンポでの議論が素晴らしく刺激的だったので、
シンポを企画・運営した担当者5人は、直後に論文を書こうと考えました。

ところが、シンポにおいてはもちろん、
その後にも、あまりにも多くのご意見をいただいたので、
何をどう書いていいのか分かりませんでした。

そこで我々は、より深く広くこの問題を議論し Public engagement を進めるために、
検討チームを立ち上げようと考えたのです。

我々がAshleyケースの乳房芽と子宮摘出ではなく、特に成長抑制に話を絞ったのは、
成長抑制がもっとも多くの人に関わる可能性が高く、
その一方で利益と害の関係を検証するにおいて
最も難しい問題を含んでいると思われたからです。

 

詐欺師の話というのは、本当は矛盾だらけ穴だらけで
事後に聞く人は、どうして、この程度の話にだまされる人がいるんだろうと
不思議に思うのが常なのだけど、

 

だまされている人は、相手の話についていってしまうので
相手の話に沿って自分の視点まで動いてしまうために、常に目の前しか見えず、

 

相手の話が進行するにつれて、矛盾を覆い隠すべく
巧妙に微調整・修正されていることに、なかなか気がつくことができない。

 

Wilfond医師が語るにつれて、その話の展開に付いていってしまったら、
これはこれで大して矛盾のない話のように思えてくるのは、きっと、そういうことだ。

 

詐欺師の話を聴いて、相手の話の矛盾に気づき、これは詐欺だと悟るためには
相手の語る道筋に釣り込まれず、不動の視点から
距離をもって相手の話を聞かなければならない。

 

その不動の視点とは、多分、最初から「これは詐欺だ」と知っている視点──。

 

Wilfond医師がここで語っているのは
病院が隠蔽工作のために創作し、これまでも事態の推移の要所要所で
微調整と訂正を繰り返してきた物語にすぎないという視点から動かずに眺めれば、
彼の話の矛盾点がいくらでも見えてくる。

 

最初からpublic engagement を旨とし
「公に皆さんと一緒に議論しよう」と考えていたのなら
そもそもの最初から、職員だけの閉鎖的な特別な倫理委で検討など、しないはずだ。

 

2年も秘密になどしておかず、すぐにも公表したはずだ。

 

広く一般に議論するために発表した論文なら
成長抑制だけでなく、乳房摘出や子宮摘出についても詳細に書いたはずだろう。
親の動機を別のものに摩り替えたり、ホルモン療法の期間をごまかしたりもしないだろう。

 

親がブログで何もかも暴いてしまう前に、
医師がきちんと説明したはずだ。

 

2007年のシンポのあとに、病院が、さらに成長抑制を正当化し
急ぎ一般化して、Ashley事件から早く public の目をそらせる必要を感じていた他には、
そもそもワーキンググループを作る必要などなかったはずだ。

 

利益と害の関係を検証するに当たって最も難しい倫理問題を含んでいるのは
成長抑制よりも乳房摘出であり、

 

最も多くの人に関係してくるのも
成長抑制よりも子宮摘出であるはずなのだから、

 

ワーキンググループの議論が成長抑制に焦点を絞ったのも、
当初の論文が成長抑制だけを書き、2007年のシンポも成長抑制を中心にしていたのと同じ、
そういうことにしておきたい病院側のニーズに過ぎないはずだ。


Ashley事件とは
力のある親に抗えなかった病院が政治的な配慮で内密裏にやったことが
病院の当初の目論見がはずれて、ひょんなことから表に出てしまった……という
特異な背景のある事件であり、

 

Diekema医師や病院から出てくる説明は
その隠蔽工作のために作られた物語に過ぎないという仮説に立って眺めれば、

 

ほころびや穴ぼこを塞ぐために
これまでの展開の要所、要所で病院が微調整と修正を行ってきたように、
今回もまた、public engagementなどという言葉を持ち出して
微妙な修正が加えられているだけで、

 

こんなの、ただの姑息な作り語──。

 

最初は隠そうとしていたことを親に明かされてしまって
明かさざるを得なくなってから、その時々に、どうにかこうにか話の辻褄を合わせてきたものを、
ここまできた今になって、public engagement なんて言葉を持ち出す──。

 

「最初から、我々はこれを旨としていました」などとヌケヌケと──。

 

「オレだよ、ほら、オレ」
「あら、タカシなの?」
「うん。そうそう。タカシだよ、タカシ」

 

シアトル子ども病院の言う public engagement は、このタカシと何も違わない。