Wilfond医師が「重症児へのコスメティックな手術も親の決定権で」

Benjamin Wilfond 医師と言えば、
シアトル子ども病院Trueman Katz 生命倫理センターのディレクターで
”Ashley療法”論争にもメディアやネットにちょっと怪しげな立場で登場、
去年のワシントン大学の成長抑制シンポにも登場していたし、
その後の成長抑制ワーキング・グループのメンバーでもあり、
1月23日のシンポでは最初にWGの“妥協点”について解説した人物。

そのBenjamin S. WilfondがDouglan J. Opelと共著で書き、
最後の謝辞によるとDiekemaも下書き段階でコメントしたとされている
Hastings Center Report、January-February 2009の論文

Cosmetic Surgery in Children in Cognitive Disabilities:
Who benefits?
Who decides?


正直、何度読んでもワケがわからない。

取り上げられている事例のイチイチがその文脈に妥当な事例だとは思えないし、
またその妥当とも思えない事例を巡る著者らの解釈が
本当に米国の現場の医師の感覚がこんな程度のものなのかどうか、
頭をひねってしまうほど皮相的で人間不在で、
(その中の1つは私がずっとこだわってきた胃ろうについてのものなので
 それについては、また別途エントリーを立てようと思います。)

総じて、
Ashley事件で親の決定権が問題になったことを大いに意識して、
Ashley事件で出た「これはコスメティックな(外見を取り繕うだけの)医療に過ぎない」という批判も
ついでに大いに意識して、

重症知的障害児へのコスメティックな手術については
どうせ誰の利益かなんて、本人と親の間にはっきり線を引けないのだから
それなら親の決定権を尊重してあげれば、その話し合いの過程によって
親と医療職の間に信頼関係が築かれるというメリットだけはある
と、結論をとんでもないところに飛躍させるべく、
意図的に組み立てられた論文に過ぎないんじゃないか、と思ってしまった。

Wilfondらは冒頭で
ちょっと理解しかねる事例を引いた後で

発達障害のある子どものコスメティックな手術については
 障害のない子どもの場合とは違う倫理基準を用いるべきなのだろうか?

 重症の認知障害のある子どものコスメティックな手術は
 そもそも許されるべきなのだろうか?

 それは親が決定することを許されるべきなのだろうか?」と

3つの問いを立てているのですが、そのすべてに、
この論文の結論はYESと答えているわけです。

つまり、
どうせ本人は社会心理的利益を感じることもできないし
 目的が親の利益だったとしても
親の利益は間接的に本人の利益にも重なるのだから
発達障害のある子どものコスメティックな手術は
障害のない子どもの場合とは別の倫理基準で判断し、やってよい」と。


Ashley事件で一番恐ろしいことは
これまで当ブログで何度か指摘してきたように、

このような厳密さを欠いた議論の中で、いつのまにか
「重症の知的障害児の場合には話が別」という一線が
医療において引かれてしまうことなのではないでしょうか。

この一線がいかに世間の人にとって受け入れやすいものか、

障害学や障害者運動の人たちですら無意識のうちに
「Ashleyは赤ん坊と同じなのだから他の障害者とは話が別」と考えていたことを思うと、
なぜ、そんなに簡単に多くの人が誤魔化されてしまうのか、
私はその1点が、もう身もだえするほどに悔しくてならない。

その線引きを
シアトル子ども病院が完成してしまおうと急いでいるのは
本当にそれが重症障害児のためだと倫理の専門家として心から信じるからではなく
ただただ、もう絶対に認めることが出来ないところまできてしまった
自分たちの失態を隠蔽しきってしまうためかもしれないというのに。

そして、こうして一度引かれてしまった線引きは
一方で進む自殺幇助の合法化議論や「無益な治療」議論においても
「重症の知的・認知障害のある人は、それ以外の障害者とは別基準で」と
影響してくるに違いない。

しかも恐ろしいことに
ここで別の倫理基準が当てはめられて然りとされる「重症の知的障害」は
論文の中で一切定義されていないのです。

冒頭で
スケートボードの事故の脳損傷により四肢麻痺になった子どもの事例が出てくるのですが、
そこに「意思疎通が出来ない」と障害の重篤さを説明する箇所があります。

成長抑制ワーキング・グループが
当初Diekema医師らが主張していた「重篤な知的障害」という条件を捨て
いつのまにか永続的に「意思疎通が出来ないこと」と「歩けないこと」を
成長抑制を妥当とする対象児の基準としていたことを考えると、

これから先の米国の医療では
「意思疎通が出来ない」ことが
「別の倫理基準」を当てはめる線引きとなっていく可能性が懸念されます。

くれぐれも、この曖昧さと巧妙な論理の摩り替え、ズラしに
乗せられてはならない──と肝に銘じておきたい。