Not Dead Yet、S・Drake氏のFEN批判

米国のNot Dead Yet は「まだ死んでいない」という名前の
障害者の人権活動団体。

Kevorkian医師がターミナルではない障害女性への自殺幇助で無罪になったことを機に1996年に設立され、
その後一貫して自殺幇助の合法化に対して抵抗運動をしています。

サイトのタイトル部分には、以下のように書かれています。

しばしば思いやりのある行為のように説明されるが
医療による合法的な殺人は実際には重症障害のある人を殺すダブルスタンダードであり、
ターミナルと名づけられる人とそうではない人の両方を対象にしている。

NDYのリーダーStephan Drakeが3月13日にラジオ番組で
鋭いFEN批判を展開したようです。
トランスクリプトがNDYの16日付のエントリーにアップされています。

FENの自殺幇助疑惑については、文末に関連エントリーをまとめてあります)



Drake氏の発言から個人的に印象に残った箇所を以下に。
なお、逐語訳ではなく、ある程度まとめています。

・ 本気で自殺したい人は毎日自分で死んでいる。FENを頼る人というのは、誰かが傍にいて力づけてくれないと自殺できないのだから、その時点で既に彼らは揺らいでいるのだ。

・ 自殺の方法を情報として流すことならネット上でも行われているし規制も難しいが、FENにはヘリウム自殺の間、頭にかぶった袋を脱がないように手を押さえていたという話もある。本能的に脱ごうとする動作と、死ぬのを思いとどまって脱ごうとする動作をどうやって見分けることができるというのか。誰かが本人の希望で自殺を手伝った行為が、実際は殺人に終わっていたとしても見分けることはできない。実際に傍にいたのかどうか、具体的にはどこまで手伝ったのかが問題。

FENを頼る人たちは、余命6ヶ月以内という条件のあるOregonやWashingtonの尊厳死法では対象にならない人たちなのだということは、重視しなければならない。

・ Stephan Drake自身、出生時に脳損傷があったので両親は医師から「植物」だといわれた。新生児でも成人でも、脳損傷があるとなると、次に出てくるのは、まるで物品のように施設に収容しようとか死なせようという話。安楽死推進運動は、こういう状態の人とターミナルな状態の人を十分に区別していないし、さらに言えば、FENで今回逮捕されなかった活動家の中には、以前は障害児殺しの罪を免罪しようと運動していた人もいる。

・ (FENの逮捕が、自殺した人の家族からの捜査依頼で行われた囮捜査によるものだったことから、「自殺は本人の自己決定権で行われるものである以上、家族がFENを責めるのはお門違いだろう」とのホストの指摘を受けて)、問題は、その人がもしもFENを知らなかったとしたら、それでも自殺していたかどうか、という点。

・ また、意思決定能力のある人なら自殺は自己決定だという場合に、その意思決定能力の有無をどのようにして線引きするかという問題もある。


ホスト2人はどちらかというと自殺は個人の自己決定権だと考えて
自殺幇助の合法化に賛成の立場からDrakeに反論していきますが、
Drakeの指摘から、自分たちの見解を部分的に修正しつつ話が進んでいるような印象を受けます。

まず「死にたいのは本人の意思なのだから、それを手伝ったとしても悪いはずはない」と主張し
Drakeの「手を押さえたら本人意思が変わった場合には殺人になる」可能性を指摘され、
「ああ、それはそうだ、実際に手を出してはいけないな」

次に「でも自殺を決めるのは本人の権利なのだから
家族や周りの人間がとやかく言えるものじゃない」と主張し
Drake氏に「その人はFENがなかったとしても自殺していたか」と問いかけられ、

Drakeのダブルスタンダード説に
「でも自殺を望むのは障害者や病人でしょ」と突っ込んで、
「本当に自己決定できる人かどうかの線引きはそう簡単ではない」と指摘されて
初めて、そこに問題があることに思い至った様子。

全体に、
当該問題に関する具体的な事実関係を詳細に知り、深く考察してきた人と
そこまで細かい事実関係も知らず、その問題にかかわる周辺事情も知らないままに、
皮相的な抽象論で安易に結論を出してしまった人の差……というのをここでも感じて、

そのパターンはAshley事件で起きたことや
日本の射水市民病院での呼吸器はずし事件で起きたこととまったく同じだなぁ、と。


世間一般の多くの人は、
事件の事実関係をきちんと知って、その上で問題を考えようとする前に
「分かりやすく飲み込みやすい物語」を勝手に頭の中に作り上げて
その怪しげな物語にのっとって自分の意見を決めてしまう。

Ashley事件では
“科学とテクノ万歳文化”にどっぷり浸かったIT企業の幹部である父親の
“お山の大将”的独善性と愚劣な権力者の特権意識と直線思考とに
病院がプロフェッショナルとして抵抗できなかったというだけの
お粗末な事件だった(可能性がある)ものが
「ここまでしてでも重症児のわが子を思う美しい親の愛の物語」になってしまった。

射水事件では
脳死の定義すらおぼつかない、お粗末な意識の医師が
「患者への愛情と高潔な使命感から、保身に汲々とする病院と対決する安楽死信奉者」に変身した。

いずれの事件でも
分かりやすい物語の蔓延にメディアが果たした役割は大きいけれど、
そういう物語が即座に作られて、また広く一般に歓迎されていくというのも

どちらの事件の背景にも、
そうした時代の力動みたいなものが予め蠢いていたからなのだろうと
前に上記リンクのエントリーで考えてみました。

その伝で行けば、
このラジオ番組のホストが自殺幇助の問題について事実関係や周辺状況を知らず、
「尊厳ある死に方を選ぶのは自己決定権である。
自分で意思決定能力がある成人なら認められてよい」という
単純明快な論理を何の疑いもなく受け入れて、

そこに「尊厳」は捉え方によって内容が違ってくる可能性があるし、
実際に自殺幇助合法化議論の中で(Ashley事件でも)「尊厳」の内容が変質しつつあることや


経済の行き詰まりから社会的コストのかかる弱者切捨てが広がっている事情、

特に医療における障害者の切捨てが露骨になりつつある中で
本当の意味で“自己決定”になりうるのかという問題や、

「意思決定能力(competence)」をめぐる判断に潜んでいるリスクや
代理決定の方法論やセーフガードの問題など、

事件そのものの事実関係や、また周辺的な事情を知れば知るほど、
コトはそれほど単純明快ではないことが分かってくるのに、

それほど丁寧な手間をかけず、
メディアから口移しにされる飲み込みやすい単純できれいな物語を丸呑みして
さっさと結論を出してしまうのも、

それはきっと、もともと時代の力動がそういう結論を予め用意しているからだろうし、

また人々の鵜呑み丸呑みがさらに時代の力動を後押することにもなって
ある方向へ向かう世の中の動きを加速させていく……というのが、
今あちこちで加速化する循環のカラクリなのではないか、と思ったりするのですが、

そもそも世の中にはそういう力動を作り出したい人たちというのがいて、

そういう人たちにとっては、
なるべく多くの人が深く知らず深く考えないままに
単純な物語を丸呑みしてくれるほうが好都合なのだということを考えると、

スローガンのように単純明快で飲み込みやすい物語や理屈というものには、まず警戒感を持ち、
目の前に出てきた時には、とりあえず受け取りは保留にしておいて、
その間に一つ一つの事件で起こっていることの事実関係を自分で確認し、
その周辺で何が起こっているかという事情もある程度まで知ったうえで考えてみる……
……という姿勢を一人でも多くの人が持つことが、

時代の力動を敢えて作り出したい人たちへの抵抗にもなるんじゃないだろうか。