Truogの「無益な治療」批判への批判

去年テキサスで起こったEmilio Gonzalesの治療を巡る「無益な治療」論争について
ラディカルな生命倫理の主張で知られるDr. Robert Truogが
Emilioの治療を停止しようとした医師らを批判していることを
前回のエントリーで紹介しました。

このTruogの論文を自分のブログで槍玉に挙げているのが
終末期医療にかかる費用を明らかにするとして医療改革を提唱する本
In Defiance of Death: Exposing the Real Costs of End-of Life Care”を上梓したばかりの
Michigan州Kalamazooの腎臓専門医 Kenneth Fisher。

Truogの批判に反論するエントリーは4月28日の

Can Medical Ethics Taken to the Extreme be Detrimental
Healthcare in America (Dr. Kenneth Fisher’s blog), April 24, 2008

「医療倫理が極端に走ると弊害があるか」とタイトルで問い、
本文冒頭で「絶対あると思う。最近の例ではこれだ」とTruogの論文を挙げているのですが、

逆からの読み方をすれば、Fisherが言っていることそのものが
あまりに極端に走った医療倫理とも見えるのが、ちょっと可笑しい。

それほどFisherのTruog批判には
典型的な功利主義の医療倫理の考え方がはっきり出ているような気がするので。

例えば


Gonzales事件で医師らが懸念したのは、経管栄養、持続点滴をされ、何度も血液検査をされて人工呼吸器で呼吸させられるというEmilioの状態の尊厳のなさであったのに、Truogには本人の尊厳はどうでもよかったらしい。

・ Truogは裁判所が判断すべきだと主張するが、治療が特定の患者にとって有益であるかどうかを判断できるのが医師の専門性であり、その専門性による判断は患者や家族の要望や裁判所の判断を超えるものである。

・ Truogは医療の現場では公正さが守られないというが、意見の違いから争議が起こった場合には自分が提唱している全国的な「適切な治療委員会」によって解決すればよい。
(「適切な治療委員会」とは治療の妥当性判断のみを行う倫理委のようなものと思われます)

・ 米国で1年間に55万人もがICUで医療資源を過剰に使って死んでいき、社会に大きな負担を強いているのはTruogのような考え方をするからである。

・ 医師は日々の診療の中で生じる争議を法廷のような他者に明け渡してしまうのではなく、患者の最善の利益を念頭に、医療の専門家としての知識の範囲内で治療を行う責任を身につけるべきである。

去年のシアトル子ども病院生命倫理カンファレンスでの
Norman FostJohn J. Parisの主張と全く同じ。

Fostも「誰が子の利益を倫理委で代弁するのか」との問いに対して
地域の代表を1人か2人入れればいいだろうと答える安直さで
裁判所に取って代わるセーフガードとして倫理委員会があると言いたそうでした。

しかし、彼らのような主張をしている人から
「呼吸器や経管栄養は本人にとって尊厳のない状態」だと言われても
ちっとも本人の尊厳が尊重されているようには聞こえない。

気になるのは、ここで経管栄養まで「尊厳がない」と言われていることです。

最近「第2のシャイボ事件」が相次いで、いつの間にやら
呼吸器だけではなく経管栄養までが「無益な治療」の対象となってきたことが
改めて恐ろしく思われます。

それに、こういうことを言うのが
やっぱり移植医療に関係する腎臓の専門医だということも。

関連エントリー
その他カナダで同様のGolubchuk事件が起こっています。
詳細は「無益な治療」の書庫に。