加藤太喜子「『医学的無益』はいかなる場面で有効な概念か」メモ

生命倫理」VOL.21 NO.1 2011年9月に掲載の加藤太喜子さんの論文
「『医学的無益』はいかなる場面で有効な概念か」を、
とても興味深く読んだ。

シュナイダーマン、ヤングナー、ウィルソン、バーナット、ルビン、
トゥルオグ、バゲーリ、ブレット、ラントスの見解を紹介しつつ、

「医学的無益」がきちんと定義されていないこと、
線引きの恣意性、コスト論との関連などの問題点を指摘。

最後にバゲーリの提言が具体化されたものとして
米国医師会医療倫理・司法問題評議会が提案する「公正プロセスアプローチ」を
取り上げつつ、

このプロセスが本人同意なき治療の中止または差し控えを
正当化するとは限らない、とも。

(このアプローチについては、拙ブログでも見た記憶があるのですが
たぶん、これ? http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/62583980.html)


「医学的無益」という概念を使って説明せざるを得ない場合には、どの治療がどんな目的に対してどの程度「無益」かについて丁寧に注意深く明示する必要がある。

医療現場で語られる「無益」は、必ずしも事実についての判断として述べられているとは限らず、専門家の間でも無益かそうでないかについての見解が分かれる可能性があることに注意を払う必要がある。


で、結論としては、

医学的無益とは、無益であるにもかかわらず患者の要請に応じて治療を継続することが、医療従事者としてのインテグリティを棄損するといわざるを得ないような事態においてのみ、はじめて有効となる概念であろう。


この論文を読んで思うことはいくつかあって、

まず、日本の尊厳死法制化について、現場の医師の方々から
「無益な治療の中止と差し控えは既に国際標準」という発言を時に見るのだけれど、
こういう論文で英語圏の医療倫理の議論を概観すると、
そう簡単に言っていいんだろうか……と。

次に、トゥルオグについて。

トゥルオグが無益な治療論に批判的なことは
拙ブログでもGonzales事件関連など、いくつか情報を拾っているけど、



加藤論文でも、Truogは、
蓋然性の基準が恣意的だとか、そこに価値判断が含まれていることを根拠に
無益な治療論を批判している、とされている。

それなのに彼はどうして小児の臓器移植についてだけは
「一方にどうせ死ぬ子どもがいて、もう一方に
その子どもの臓器で助かる子どもが複数いるなら、
倫理判断の答えは既に出ている」んだから
DCDドナーが死んでいるかどうかなんて関係ない、てなことを言うんだろう?


加藤論文によるとトゥルオグは
「無益は隠された配分の問題を正当化するために不適切に用いられるかもしれない」と
指摘しているんだけど、

上記の講演では彼自身が臓器の配分の問題に
ものすごく乱暴に「”どうせ死ぬ患者”の無益」を持ち出している感じがしてたので、
ここのところが??? 

そうかと思うと、ホームレスで十分な医療を受けられずにきた親が、
無益でも心肺蘇生をしてあげたことで感謝してくれたといって、
家族のための無益な治療の意義を説いたりもする。


結局、生命倫理学者/医師も、自らの直接体験の範囲内で、
決して論理だけでは片付かない矛盾したものを抱えながら揺らいでいる……ということなんだろうか。

それにしても、Maraachli事件でのシンガーの発言などを考えると、
「隠された配分の問題」も既に「隠されなくなってきた」感じがする。


ちなみにバーナットの一方的DNR指定の考察は
つい先月、当ブログで拾ったばかりで、その中でも
Truogの無益な治療論批判への批判が出ていたので、以下に。