TruogのGonzales事件批判

Harvard大学のDr. Robert Truogといえば、
以前臓器移植で「死亡提供者ルール」廃止せよとのエントリーで紹介したように、
臓器を摘出するのに脳死を待たずとも
本人の事前の意思表示さえあれば植物状態から摘出してもよいことにしようという
あまりにもラディカルな主張が頭にこびりついているので、

(SingerとTruogのこのような主張については
小松美彦氏が「脳死・臓器移植の本当の話」の中で書いておられます。)

この論文に行き当たった時には、とても意外な気がしたのですが、
Truog氏は去年7月に the New England Journal of Medicineで
テキサスで重症児への治療を医師らが停止しようとしたEmilio Gonzales君の「無益な治療」事件を論じており、
このような「無益な治療」論による医療停止を批判的に分析しています。

Tackling Medical Futility in Texas
Robert D. Truog, M.D.
The New England Journal of Medicine, July 5, 2007


「Emilioへの治療は無益なばかりか彼に苦痛を与え尊厳を損ねている」とする
病院側の治療停止の根拠についてTruogが反駁しているのは3点で、

① 人工呼吸器を装着している患者の苦痛は
充分な沈静・麻酔薬によって取り除くことが出来る。

② Emilioの症状が進めば苦痛を感じることもなくなったはずであり、
医師らの主張は成り立たない。

③ 医療者がどのように感じていたにせよ、
ベッドサイドにいた母親らはEmilioの生を尊厳あるものと感じていた。


また、「無益な治療」論そのものに関しても以下のような批判をしています。

① 過剰なコストがかかることが言われるが、このようなケースは稀であり、
またいずれにしても近いうちに死ぬ患者なのだから、
治療を停止したところでコストカットの効果は大きくはない。

② 無益な治療を行うことが医療職の空しさ、ひいては燃え尽きに繋がるという議論もあるが、
それを根拠に治療を停止しようとする姿勢こそ
医療職の価値観が患者家族の価値観よりも正しいとの前提に立つものである。

③ テキサスの法では病院内倫理委員会が法廷や裁判官に代わる役割を担っているが
住民代表をメンバーに加えるとはいえ、ほぼ「医療の内部の人間」で構成され
「医療者の価値観」が支配的でもある病院内倫理委が
Emilioのような貧しい黒人親子の“jury of peers”(同じ立場の人が陪審員になること)になれるわけもなく
よって病院内倫理委が裁判所や裁判官の代理としてふさわしいとは思えない。

Truogの結論をざっとまとめてみると、

テキサスの事前意志法の利点は、逆に、
患者や家族の要求に対して医療者が何でも応じなければならないとジレンマを感じる際に
医師らが患者を守るための解決の方法として捉えるべきである。

そうでなければ、この法律は機械的に治療を停止するメカニズムとして利用されてしまう。
現にBaylor Health Care Systemでは2年間に47の症例のうち43の症例において
「無益な治療」を主張する臨床チームの判断を倫理委が認めている。

リベラルな社会として我々が誇るのは
マジョリティの専横からマイノリティの権利を守ること。
多様性とマイノリティの視点を尊重し、
Gonzalesのような症例では、
自分はそれが間違っていると思うとしても
他者の選択を許容する能力をこそ我々は高めるべきであろう。

そして、

The gold standard of the due process approach is an honest judicial system.

然るべきプロセス・アプローチの黄金律は正直な司法制度である。

        ―――――

ところで、Truogの病院倫理委員会に関する指摘は、
そのままAshley事件にも当てはまります。

去年5月のUWのシンポジウムの際にも
Northwestern大学のAlice Dreger氏が同じことを指摘していましたが、
Ashleyの親は富裕層の白人でした。

もしもAshleyの親が本当に報道されたとおりの中流層であったり
黒人やアジア系、ヒスパニック系であったとしたら、
シアトル子ども病院倫理委員会は同じ結論を出していたかどうか。
いや、それ以前に倫理委まで話がたどり着いたかどうか。

もう1つ、この記事には
実際の法文の条件がいくつか挙げられていて、
その中の第一に挙げられている条件は
患者や代理の治療要求に対して医師が拒否する場合は、
病院の倫理委員会での検討が必要だとするものですが、

そこで注目したいこととして、
その倫理委員会には担当医が加わらないことが条件とされています。
それによって倫理委の議論の独立性を担保せよ、ということでしょう。

当該ケースの直接担当者を外して独立した議論が行われるべきだというのは
考えてみれば当たり前のことだと思うですが、

Ashley事件における大きなミステリーの1つは、
「この奇妙な事件において、Diekema医師はいったい倫理委のどこにいるのか」という点でした。

彼は症例の直接担当者であり、
資料から推理すれば当初から熱心な推進役であったと思われるのに、
同時に病院内倫理委員会のメンバーでもあるだけでなく
“倫理委の議論を率いた”人物だともされる。
事件が公になってからはメディアに登場しては
まるで客観的な倫理の専門家として解説するがごとき奇怪な言動。

Ashley事件こそ、
Truogが指摘しているように
「病院倫理委員会は裁判所にとって代われる水準に達していない」ことの証拠なのでは?


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(Norman Fostが「無益な命」に「無益な治療」は中止しろと医師らにハッパをかける講演。
Truogの論文でも冒頭で触れられているBaby K事件への言及もあります)
コスト
(シアトル子ども病院のWilfond医師がコストに関してTruogと同じ指摘をしています。)