Truogの「無益な治療」講演(2011年11月10日) 後

前のエントリーの続きです)


Truogは講演の後半、
自らが所属するボストン子ども病院の無益な治療をめぐる方針と、
テキサスの一方的な無益な治療法(正確には事前指示法)とを比較検討していきます。

例として言及されているのは
当ブログでも取り上げたテキサスのGonzales事件と、
ボストン子ども病院で彼自身が心肺蘇生実施を決断し去年NEJM誌に報告したJanvierのケース。

いずれも当ブログでリアルタイムに拾っていますので、詳細はこちらを ↓
(文末にも関連をリンクしました)




ボストン子ども病院の方針のポイントは

① 倫理委員会の検討を求めている。
② 治療を継続可能にする転院の努力が払われること
③ 家族に法的手段について説明すること
④ 家族に法的手段に訴える費用がない場合には病院が支払うこと
⑤ 一方的な意思決定が認められていること
(実際には一方的な決定が行われたことはない)

それに対して、テキサスの無益な治療法の問題点としてTruogが指摘するのは

① 倫理委員会に全権限を認めてしまっているのは、
そこでの判断が医療の論理に偏る危険性がある。
地域住民を含んでも、そういう人たちは病院と近い関係にあるので
やはり偏りのない判断ができるとは思えない。
② 家族に法的手段をとるための資源が保障されていない。

テキサス方式は紛争解決の手段としては効果的だが、
あまりにも簡単に病院側有利にカタがつくことにならないか、

ボストン方式の方が、倫理委の関与だけでなく、
解決までの道筋まで明確にされているのではないか、

一方的意思決定はすべからく shared-decision makingではない点が最重要、
法的プロセスの保障は必要、などを指摘。

医師からも病院からも独立した外部の法的委員会(extra-judicial committee)を含めた
意思決定手続きを推奨する。これは大筋として、上にリンクした08年当時の主張と同じ。

彼自身は去年JanvierのケースをNEJMに発表して以来
多くの批判を浴びたし、直接関わった病院内のスタッフからの異論もあり、
ずっと考え続けているという。

去年のエントリーから漏れている情報も含め、事件の概要は以下。

Janvierは重症の脳ヘルニアで生まれた。両親はホームレス。
生まれた時から、蘇生も延命も無益だと重ねて説明したが両親は受け付けず、
あらゆる手を尽くしてほしいと望み続けた。
心臓が止まった時に両親の望みに沿って心肺蘇生を命じた。
諦めるまで15分。家族を呼ぶように指示した。

親と病院の関係は悪く、
病院に来るや「まさか殺しちゃいないよな」と言われたりしていたので、
どんなにか親が腹を立てるのではないかと覚悟をして会ったが、
説明すると、静かに「お礼を言います。本当に一生懸命にやってくださったんですね」と。


無益な治療を実施することのコストvsベネフィットで言えば
常に「親の心理的な利益」に、社会的コスト、患者と家族の苦しみ、医療職の苦悩が対置されて
秤はコストの側に大きく傾くが、

時として、家族の心理的な利益を重視することがあってもいいのではないか、

もちろん医療職には無益な治療も無益な心肺蘇生も申し出なければならない義務はないが、
時には、そうしてもよいケースというものが、あるのではないか、と

なんとも曖昧な講演の締めくくり方をしている。

              ――――――――

まだ聞いたばかりで、考えがウロウロしているのだけれど、

まず思うのは、
「時には」というのがどういう時なのかを
Truogは明確にすることを求められるだろうし、
また彼にはそれを明確にする責任がある、ということ。

でも同時に、それを明確にすることは非常に難しいだろう、ということ。

たぶんTruogが感じていて、まだ意識できていない、だから言語化できていないことは、一つには、
親の心理もまた、病院や医師や医療スタッフとの関係性の中にある、ということ
なんじゃないだろうか。

このケースで両親がホームレスだったということを考えると
親と病院や医療スタッフとの関係性もまた、それ以前に
親と社会とのより大きな関係によって影響されている、とも言えるのかもしれない。

そこにあるのは
簡単に数値化したり、何かの尺度を当てはめて計ったり、
別の何かとの比較によって答えが割り切れるような類のことではなく、
もう本当に「時には、そういうことだってある」としか言いようのないことだと
感じているからこそ、

DCDドナーによる臓器移植に関しては09年に
「どうせ死ぬ子どもが一人いて、一方にその子の臓器で助かる子どもが3人いるなら
倫理の勘定の答えは既に出ている」と平気で言い放った(詳細は文末のリンクに)Truogが、
無益なことが明らかな心肺蘇生について、こんなにも煮え切らない語り方になるのではなかろうか。

でも、それなら、
その煮え切らなさ、はっきり説明できないけど主治医として
「やってあげた方がいいんじゃないか」と特定の親子に感じる気持ち、
その相手との関係の中で生じてくる数値化も差引勘定もできない気持ちというものは、
「どうせ死ぬ命は1つ。それで助かる命は3つ」という倫理の勘定をも
同じく否定するはずのものではないか、ということに、
なぜTruogは思い至らないのだろう?

Janvierのケースで心肺蘇生を命じた自分の判断について、
ずっと考え続けている、とTruogはこの講演で言っている。

それなら、この先もずっと考え続けてほしい。

恐らく社会からenoughを得たと感じたことがなかっただろうホームレスの両親にとって
なぜ一切どんな治療の制限も認めないと主張することが重要だったのか、

そんなふうに生きて来て、
「まさか息子を殺したんじゃないだろうな」と猜疑に満ちていた親が
「手を尽くしてくれてありがとう」と、初めて心から率直に感謝してくれた驚きに
なぜ自分はこんなにも心を揺り動かされたのか。

なぜ、このケースが頭から離れないのか。

多くの批判を浴びながら、それでも
「時には無益でもやってもよいのでは」と今なお主張したいと感じるのは、
一体なぜなのか。

そういうことを、考え続けてほしい。