「いまや栄養と水分は無益な治療」とテリー・シャイボさんの弟

2005年に栄養と水分補給を断たれて餓死させられたTerry Schiavoさんの死後、
Terryさんの遺族は財団を作って医療現場での無益な治療停止の動きに抵抗していますが、

そのSchiavo財団の活動を中心になって担っている
Terryさんの弟(兄かも)のBobby Schindler氏が
インディアナ州Warsawで講演し、

10年から15年前には、
私の姉のような患者を餓死させるなんて考えられないことでした。

しかし、今では、ごく普通のことになっています。

今とめなければ、今から5年後、10年後には
いったいどうなっているでしょうか

Schindler氏はTerryさんの死後、
同じような状態の患者さんの家族から600本の電話を受け、
150の訴訟で支援を行ってきたといいます。

その経験の中で、最も困難なのは
生命維持治療(主に栄養と水分)は回復には無益だから、それ以上行わないと
病院の生命倫理委員会が決めてしまった時に、
障害のある人をケアしてくれる場所を探すことだ、と。




しかし、法律が無くとも、医療現場では慣行化していることが想像されます。
病院内倫理委員会がその正当化装置として機能していることも。

それにしても、
ある治療をしたところで患者が回復しなければ、それは無益な治療だという判断基準は
いったい、いつ、どこから出てきて、どのように議論され、正当化されたのでしょうか。


2007年のテキサスのGonzales事件では
ターミナルな子どもに延命治療が苦痛を強いているから
その延命は無益な治療だとして停止を決めた病院が
それでも親の抵抗によって、裁判所から、その判断の当面の保留を求められました。
(詳細は文末リンク参照)

このように、当初は
「回復のメドが無いのに苦痛を強いるだけの治療は無益だ」という判断だったはずのものが、
ほんの1、2年の間に、「回復に繋がらない治療は無益だ」という判断に飛躍しているのだとしたら、
(日本の「機能を維持するためだけのリハビリは認めない」という姿勢にも通じるものがありますが)

それは、尊厳死の議論が当初は
「ターミナルなのに苦痛を強いるだけの延命は望ましくない」という反省だったはずのものが
いつのまにか議論からも実際からも「ターミナルであり耐えがたい苦痛がある」という条件が抜け落ちて
「当人にとって苦しい状態を変えることができないならば、その生は生きるに値しない」に飛躍していくのと
まったく同じ現象のような……。

まるで重病や重い障害のある人を
医療現場での切捨てと、「死の自己決定権」とで挟み撃ちにして
自ら死を選ぶしかないところへと追い詰めていこうとするかのように──。







その他、「無益な治療」の書庫に多数あります。