Alison Thorpeが1月に言っていたこと

Echoというニュースサイトが、If only we could have stopped our child growing up, as well(1月10日)という記事で、Katieの母親について詳報していました。“アシュリー療法”論争真っ只中での記事です。

彼女は今年はじめ、アシュリーに行われた医療処置について専門家がラジオで人権侵害であると批判しているのを聞いたとのこと。

その時私はKatieに学校に行く支度をしてやっていたんです。オムツを替えたり、してやらなくちゃいけないことが毎日いっぱいあるんですから。(そこへラジオを聞いて)じゃぁ、来てここに立って私が今やっていることをやったらどうよ、そうでもなければラジオでそんな批判をする資格なんかないわよと考えていました。

Alisonはその通りの内容のメールを番組に送り、一躍メディアの関心の的になった、この記事の前の何日か、テレビやラジオの発言が続いていた……ということのようです。

Katie の状態について、これまでの2回のエントリーで紹介した内容以外では、

・胃ろう。オムツ使用。

・Basildonのthe Pioneer Schoolに通っており、苦痛があるときに介護者に知らせることはできるが、それが何処かを表現することはできない。過去に、足に膿瘍ができていたのに分からず、便秘が原因だとばかり思いこんで、泣き叫ぶほどの痛みを訴える娘に6週間もなすすべもなかったことがあった。(盲腸切除を希望する理由)

・Katieは30歳までしか生きられないといわれている。だからこそ残された時間のQOLを守ってやりたいと母親とパートナーは考えている。

(30歳までしか生きられない理由は何なのでしょうか。「脳性まひ」だからというだけで30歳までしか生きられないというのは、ちょっと考えられないように思うのですが。)

・通常なら成長するにつれて経験の幅が広くなるものなのに、Katieの場合は逆に成長して体が大きくなり、車椅子が大きくなって、外出もままならない。

・娘が小さいころは母親でいてやれたけど、子どもが成長するにつれて介護者役割の方が大きくなってきたのが、親子どちらにとっても悲しい。When she was younger I could be more of a mum to her, but gradually the mum role is decreasing and the carer role is increasing.It's quite sad for both of us,

記事の中から、その他、母親Alisonの発言を引いてみると、

・今から(まだ小さかったころを)振り返って、成長抑制が可能だったら同じ決断をしていたかどうかは分からないけれど、同じような選択肢はあって然りだと思います。

・成長抑制と違って子宮摘出は間違いなく、やりたいですね。メンスの不快とか嫌な気分はKatieにはいりません。車椅子に座っているとか、夜寝ることとか、普通に生活するだけでも、いろいろ問題があるんですから。普通なら意識するまでもなく当たり前にできることなのに。

・短期的に見れば子宮摘出手術など受けさせたくないけど、長期的に考えたらKatieの生活が良くなるのは間違いないと思う。

・こうした問題を提起すれば、子宮摘出術がKatieにとっても彼女と同じような他の子どもたちにとっても、もっとすんなりできるものになるんじゃないかと願っています。私たちみたいに感じる人ばかりじゃないでしょうけど、問題は選択できるということなんです。今は私には選択がありませんから。

(しかしKatieには選択ができないことは問題にならないのでしょうか? また一般化することについての発言には、時期によるものかメディアの受け止めによるものか、ちょっとブレがあるようにも思われます。)

Katieの専門家は私です。どこかの専門家だからといって私の娘のことを私よりも分かっているなんて、考えないでもらいたいわ

             ――――――


Alisonの言葉の激しさが、私には5月16日のWUのシンポで読み上げられた障害児の父親の手紙に重なります。言葉通りではありませんが、私の耳に聞こえてきたトーンはだいたい以下のようなものでした。

今までも助けてくれたことなど1度もなかったオマエらに何が分かる、どうせ何もしてくれないのにエラソーに批判する資格などない、これから自分自身が歳をとり、子どもの世話をできなくなっていっても、それでも自分たちはこの子を背負っていくしかないのだ、親はそれだけのものを背負って大変な人生を送ってきた、これからも送っていくのは親なのだから、一緒に背負うつもりなどないオマエらは、黙ってすっこんでいろ……。

この激しい攻撃性の後ろに隠れているのは、助けてくれることのなかった社会への絶望なのではないでしょうか? 

これほどの激しい絶望に至る前には、長い年月にわたって、誰かに助けて欲しいと願いながら上げられなかった声があり、届かなかった多くのSOSがあったはず。だからこそ、「どうせ何もしてくれないアンタたちに、いったい何が分かる? 何を言う資格がある?」、「じゃぁ、ここへきて、この介護をやってみなさいよ」と挑戦的になってしまうのでは? 

表面の激しさについ目を奪われてしまいますが、その陰にあるのは本当は「もっと早くに、もっと助けて欲しかった」という嘆きの声であり、「とても親だけでは背負いきれない」という悲鳴なのではないでしょうか?

それならば、これらの声に「たしかに親が一番分かっているのだから、親が望むように手術でも成長抑制でもやらせてあげよう」と応えてしまうことは、これまで通りに親だけが子を背負っていくことを是認することであり、親だけが子どもを抱え込むしかないところへと、さらに追い詰めることになりはしないではないでしょうか。

親が一番分かっていて、親がケアするしか子どもは幸福ではないのであれば、親がケアできなくなったら子どもは不幸になるに決まっていて、それなら親が連れて死ぬしかない……というところへと。