「介護者であるより母でありたい」と言い続けていたAlison Thorpe

Ashleyに行われた成長抑制と子宮ならびに乳房芽の摘出が明らかになった去年の1月に
即座に英国で「ウチの子にもやって」と手を上げたAlison Thorpeは
その後夏から秋にかけて実際に娘Katieの子宮摘出を求めて医師を説得し、
英メディアにも連日登場して自分の要望の正当性を訴えました。
(詳細は「英国Katieのケース」の書庫に)

結果的にはNHSトラストがAlisonの要望を却下して一件落着しましたが、
それまでの過程でAlisonは重症児のケアがいかに大変であるかを詳細に語り、
「この苦労を知らない人に私を批判する権利はない」と、子宮摘出要望批判の声に反撃を続けました。

彼女の正当化の論理ははっきり言って無茶苦茶だったし、
Katieの状態について語る言葉の選択にも表現にも
彼女の要望を批判する障害当事者らに向けた言葉にも
首をかしげてしまう部分が多かったのですが、

彼女が何度も言い続けたことの中に、
私にはとても気にかかるものがありました。

私がこの子の介護者であるという割合は
私がこの子の母親であるという割合よりも、はるかに大きいんですよ。
私はこの子の母親でいたいのに」

Alisonのヒステリックな物言いをニュースで読むにつれ、私は途中から、
もうとっくに限界に来ているのに「助けて」と言えない人の、
声にならない悲鳴を聞くような気がし始めたのですが、
今でもなお、彼女がメディアに繰り返し訴えていたのは、
実はこのような嘆きだったのではないかという気がしてならない。

Katieは介護者以上に母親を必要としているのに、
自分だってKatieにとってまず母親でいてやりたいのに、
でも、もうこれ以上どうやって頑張ればいいのか分からない、
Alisonは嘆いていたのではないでしょうか。

家族としての自分をとりあえず棚上げしなければ日常を回すことができなかったり、
親としての自分、妻や夫として子どもとしての自分を見失ってしまうほど
介護者にとって介護負担が大きい場合に、誰よりも不幸なのは、
その人に介護されている人だと私は思うのです。

そうなった時、
物理的には家族の介護を受けて自分の家で家族と暮らしていても、
精神的には大切な家族を失ってしまっているに等しいからです。

食事介助やおむつ交換、汚物の処理、着替えや入浴や服薬や体位交換やその合間の家事など
一日の時間を隙間なく数珠つなぎに埋め尽くしている「仕事」に介護者が追われ、
それらを着実にこなしていくことだけで精一杯になると、
次にやらなければならない「仕事」にしか目を向けられなくなります。
人間は追われ、疲れると、視野も心も狭くなるのです。
介護されている人が一番求めているのは
「自分を理解し愛する存在として、そこにいてくれる人」であり「かけがえのない家族」、
それだけはプロの介護者には絶対になり変わることのできない部分なのに、
その一番大切な家族としての関係が介護者役割に押しのけられていく。
身体はきちんとケアされていても、心はつながれなくなる。

AlisonはKatieが生まれてから15年間、通しで朝まで眠ったことがないといいます。
泣き叫ぶKatieをなだめ、近所に気を使って神経をすり減らす長い夜があけ、
ガンガンする頭に耐えながら着替えさせたKatieを車椅子に乗せたら、
ベッドはそこらじゅうウンチだらけで!……と、Alisonは金切り声で訴えました。
そこには手早い介護の手つきと、うんざりした溜息が感じられるだけで、
Katie自身に向けられる温かいまなざしというものが感じられません。

が、もしも夜の間だけでもKatieを引き受けてくれる人がいたら、
ゆっくり眠って朝を迎えることのできたAlison
手早く効率的だけれども不機嫌な介護者ではなく、
子を案じる優しい母親としてKatieのベッドに歩み寄ることができるのではないでしょうか。

矢嶋嶺医師が「医者が介護の邪魔をする!」の中で書いていた、
老人の介護は社会化して、家族は心の交流を大切にする」方がよいというのは
そういうことではないかと私は思うのです。

家族の誰かが介護を要する状態になっても、
「親は子に対して親であり続けられるように」
「妻や夫は、それぞれ妻や夫であり続けられるように」
「家族は介護者であるよりも、家族として傍にいられるように」ということ。

そのために必要ならば施設入所も受け入れよう、と矢嶋医師は提言していたのでしょう。

人は性格も環境も価値観も生きてきた道筋もそれぞれで、
家族のあり方も様々です。

どこで誰と暮らすのがベストだとか、
誰の介護を受けるのが幸せだとか、
そんな“形”にとらわれるのではなく、

その固有の家族が固有の家族のあり方の中で、
介護する人もされる人も家族であり続けられる介護を支援する……という視点で
柔軟な介護支援が考えられたらいいのに、と私は思うのです。