「自閉症の息子ケア、もうこれ以上耐えられないと思った日」

去年イギリスで刊行された自閉症の少年と犬の交流のノンフィクション
Friend Like Henry: The Remarkable True Story of an Autistic Boy and the Dog That Unlocked His World
ペーパーバックになったのを機に、
The guardianに、その一部抜粋が掲載されています。

適切な支援を受けられない孤立無援の中で自閉症の息子をケアする生活に
著者がどのように追い詰められていったか、
ついに自殺を図ろうと思いつめるに至る過程が描かれている部分。

The day I could no longer cope with my autistic son
By Nuala Gardener
The Guardian, April 28, 2008

著者であり自閉症の少年Daleの母親であるNuala Gardenerは看護師ですが、
Daleの幼児期、親の方は自閉症であると確信しているのに、
どこの病院を受診しても専門家からは否定されたといいます。

そのために適切なサポートを受けることができず、
母親は仕事を減らして毎日ほとんど1人で息子の世話をすることに。

どんどんひどくなるDaleのこだわりと格闘する生活の中で
夫婦ともに精神的にも肉体的にも疲れていき、
息抜きに外出する気力どころか、まともに食事を取る気力もなくなっていったこと。
翌日もまたどんな日になるのかを考えるとパニックとなり、夜も寝られなかったこと。
やがて夫が仕事から帰宅すると同時に家を飛び出さずにいられなくなったこと。
週末には実家に帰ってDaleの世話から逃げないではいられなかったこと。
夫婦の間にひびが入り、離婚話も出たこと。
たまの外出時に鎮痛剤を買っては隠しておくようになったこと。
とうとう「これ以上耐えられない」と薬を飲もうとした時に、
家具の隙間に息子のオモチャが転がり込んでいるのを見つけて、思いとどまったこと。
そのまま「助けてほしい」と保健訪問サービスに電話をかけたこと。
それを機に数ヶ月後にDaleは保育所に通えるようになり、やっと自閉症と診断されたこと。

著者はその後、自殺介入について学び、
仕事を通じて介護という戦いにやぶれそうになった多くの人と出会い、気づきます。

当時は自分の命を断とうとしたことに深い罪悪感を持っていましたが、
フルタイムで介護をしている人は、それほどの絶望に至るものだということを
今では知っています。
私はあの時、精神的にも肉体的にも疲れ果てていたのです。
ぎりぎりのところにいたのです。
……(中略)……
私たちはみんな、ただの人間。
耐えられることには限界があります。
でも支援もあるのです。
私は幸い、手遅れにならないうちに助けを得ることができました。

著者は自分の体験を物語りながら何度か、
当時の気持ちを表現して「もうこれ以上耐えられない」という言葉を使います。

これは介護に疲れ果てた経験を持つ人なら
誰もが知っている切羽詰った感情でしょう。
そして、「もう、これ以上耐えられない」と切羽詰った時に、
どこからも助けの手を得ることができないことほど、
介護者の孤独と絶望を深め、追い詰めるものはないという気がします。

しかし、「もうこれ以上耐えられない」という気持ちになった時に、
それを率直に口に出して外に助けを求めることができる介護者は
実はとても少ないのではないでしょうか。

多くの介護者にとって、「もうこれ以上耐えられない」と考えることは、
介護している相手への愛情が自分には足りないという自責の念と表裏だからです。
「これ以上耐えられない」、「逃げ出したい」と切迫すればするほど、同時に
「自分はなんてひどい親(妻・夫・娘・息子)なのだろう」と自分を責めてしまう。
そして自責の念が強ければ、それだけよけいに
介護を自分だけで背負い込んでしまう悪循環に入り、
さらに追い詰められてしまうのではないでしょうか。

過酷な介護を担っている人は、そんな悪循環に身動きが取れないまま、
自分の中の相反する思いに引き裂かれて暮らしているように私には思えるのです。
自分自身がそんなふうに引き裂かれてしまって、
そこから逃げ出すすべが見当たらない時、
人は心を病みがちです。


そろそろ社会も、介護を担っている人も、
「どんなに愛情があっても、生身の人間に耐えることのできる介護負担には限界がある」という現実を認め、
それを介護の共通認識にしていく努力を始めるべきなのではないでしょうか。