親と医師らの対比の構図

資料を読み込みながら医師らと両親の発言をつぶさに追ってみると、そこから浮かび上がってくるのは以下のような対比の構図です。

     妙に堂々と自信に満ちた親

          vs

     妙にこそこそと姑息な医師ら


最も端的に両親の自信を象徴している言葉は、ブログの中で医師らに対して述べた謝辞の部分(以下)にある「この先駆的な療法」でしょう。

Our sincere thanks to Ashley’s doctors and the surgery team at Seattle Children’s for their world class expertise and support throughout this pioneering treatment.

両親は、自分たちの考案による“アシュリー療法”は医学的にも社会的にも大きな意義のある“先駆的な療法”であると一貫して確信し、純粋・単純な善意から世の多くの人たちのために自らその伝道者たらんとする明確な意思を持っているようです。子ども病院がWPASと共同で記者会見を開き子宮摘出について違法性を認めた5月8日にブログに発表した声明文でも、同じような子を持つ他の家族にも同様のことが不当な障壁なく出来るよう望むと書き、なおもこの療法を広めたいとの意図が繰り返されています。

これほどの自信に満ちている両親は、事実を隠したり誤魔化したりする必要など微塵も感じていません。ブログの文章にもディフェンシブなトーンはありません。むしろ批判する人は自分の言うことをちゃんと理解せず「誤解」しているのであって、きちんと自分の論理を把握してもらえれば、この療法の意義が分からないはずがないと信じこんでいるかのようです。

ブログを立ち上げた2つ目の理由を、彼らは「この療法に対する、また我々の動機に対する誤解(misconceptions)を解くため」と書いています。もしかしたら多くの批判が巻き起こったのは、2ヶ月前の論文で医師らの書き方が曖昧だったために誤解が広まったものであり、考案者の自分が自分の言葉で明確に説明すれば誤解が解けて世の中はむしろ拍手で歓迎してくれるはずだと考えたのかもしれません。まるで論文が隠し立てしていたことを「そうではなくて、これが自分の考えの真実だと」言わんばかりの詳細・厳密な説明ではないでしょうか。医師らが論文に書いたいくつかの点について、両親がブログできっぱりと否定していたことを思い出してください。

(追記1:「いくつかの点で否定していた」というよりも、論文のあれだけの隠蔽・ごまかしを考えると、詳細にすべてを説明したという点で、ブログの登場そのものが医師らの論文全体を否定しているともいえるのではないでしょうか。)

(追記2:1月2日の晩に受けたLATimesの電話取材で、父親は介護の便宜のためにやったと誤解している人には、「ブログに書いてあることを読んでくださいとお願いしたい」と語っています。読んでさえもらえば誤解は解けるとのニュアンスです。ちなみにブログの立ち上げは元旦の夜とされており、この取材はメディアでは一番早かったもの。この時点で人々の誤解があると父親が感じていたとすれば、それは医師らの論文に起因する誤解以外にはないでしょう。)


このように、自分が考案した“アシュリー療法”に親が絶大な自信を持っていることは、資料を読めばはっきり分かります。分からないのは、親が自信満々のアイディアを持ちこんできたからといって、一組の親の思い付きに過ぎないものが何故こんなに簡単に実施に結びついてしまったのかということ。なぜ医師らがこんなにも簡単に追随してしまったのかという点です。

患者として患者の家族として医師と向かい合った経験のある人は、この点に違和感を覚えないでしょうか。

「医師らはやっぱり“乳房芽”など認めていなかった」というエントリーでも書きましたが、親がこのような独自のアイディアを持ち込んできた場合に、果たして医師はまともに相手にするものでしょうか。しかも、そのアイディアはGunther医師ですら「これを聞いた人の最初のリアクションが拒否的になるのは理解できる」という突飛なものなのです。普通なら倫理委員会まで話をもっていってもらえるどころか、診察室で切り出したとたんに呆れられ、まともに相手にしてもらえず追い返されるのがオチなのではないでしょうか。

ところが、アシュリーの親の突飛な要望は、Gunther医師の診察室で持ち出されたその日のうちに具体的な計画となり、即座に担当する倫理カウンセラーまで決まるのです。(Diekema医師は1月12日の「ラリー・キング・ライブ」で、内分泌医の初診直後に、倫理カウンセラーとしてオン・コールだった自分に電話があり、この件を担当することになったとの事情を語っています。) 医師らの論文が異様なほど親の存在を意識して書かれたものであることは既に指摘しました。

私が両者の対比の構図に「妙に」という形容をつけるのは、この疑問のためです。この事件における「医師―親」の関係性には、なにか通常の「医師―親」の関係性とは異質なものが感じられないでしょうか。