親と医師は言うことが違う ②3つの処置の関係

前回のエントリーでアシュリーに対して具体的には何が行われたのかを確認しましたが、行われたことの内容に関する両親と医師らの発言や表現の違いについて、眺めてみたいと思います。

既に指摘したように、医師らの論文は成長抑制のみをタイトルに謳い、アブストラクトや本文においても、行われたのは成長抑制のみであったかのような書き方がされています。また成長抑制についての論文でありながら、その肝心の成長抑制がどこにも定義されていません。

定義はされていないものの、内容と書き方からすると、論文の言う「成長抑制」とは「副作用軽減のための治療前子宮摘出を伴う、エストロゲン大量投与による身長抑制」との意味と読めます。さすがに、こう定義するわけにはいかなかったのでしょう。何よりもそれではウソになります。さらに定義に含まれてしまうと、子宮摘出がホルモン療法とほぼ同じ大きさで表舞台に出てしまい、注目を避けられません。注目されてしまうと、身長抑制の目的のために手段として子宮を摘出することの是非も問題になりそうです。(また、2つが定義に含まれることで、もう1つの不在が際立ってしまう、ということも考えられます。)

論文の書き方では、表舞台に堂々と登場する主役はあくまでホルモン療法。子宮摘出は、いかにも副作用軽減のための必要悪であったかのような顔をして、なるべく目立たないように、わずかに登場する端役となっています。いわば、このような配役を成功させるための舞台設定として、ホルモン療法だけを意味しているようにも、子宮摘出までを含んでいるようにも(勝手に読者が含むと読んだ場合には、それがあたかも副作用軽減のためだったとの誤解も伴うように?)、どちらにも読めるべく、「成長抑制」は曖昧である必要があったのでは? だからこそ、「成長抑制」を定義することも、「アシュリーに行われたこと」を整理・総括して提示することも、できなかったのでは?

いずれにせよ、医師らの論文を通し読みして「ところで、成長抑制とは?」とか、「結局は何が行われたの?」という点を振り返ってみると、なんだか曖昧模糊としているのです。論文なら、もっと論理的にビシッ、ビシッと明快に書いてほしい。そんな苛立ちを覚えるほど、ぬらりくらりとしています。

それに対して、「大量エストロゲン投与療法による最終身長の抑制」と、極めて明快な定義をビシッと示しているのは、両親のブログです。前回のエントリーで引用したように、両親はアシュリーのQOLを向上させるための3つのゴールの1つを「大量エストロゲン投与療法により最終身長を制限すること」と明快に書いています。

さらに、医師らがホルモン療法を主役に、子宮摘出を目立たない端役に設定し、乳房芽については登場させることすらしなかったのに対して、両親は3者を対等に並べています。

行われた3つの医療処置それぞれの、論文と両親のブログでの関係をここで図示してみると、以下のようになります。

論文
  

両親のブログ
   ○   ○   ○

最初のマルが「ホルモン療法」、次が「子宮摘出」です。読む人によっては、論文の小さなマルは大きなマルの中にあるようにも読めるかもしれません。3つ目のマルは論文にはありません。乳房芽については一切書かれていないからです。それに対して、両親の認識では3つは対等に並んでいます。

そして、次の1文は大いに注目すべき発言だと私は考えているのですが、ブログの中で自分たちがこれら一連の医療介入を“アシュリー療法”と呼ぶ理由を述べた際に、両親は次のように付け加えています。

成長抑制はアシュリー療法の一側面に過ぎません

こんなことを、わざわざ断る意図は何なのでしょうか?
 
ブログが立ち上げられる2ヶ月前に、医師らのあの論文が既に発表されていることを思い出してください。これは、医師らが成長抑制だけを主役に論文を書いたことを意識したうえでの発言ではないでしょうか。つまり、上記に○で図示したような論文の位置づけを、両親は認めていないということにならないでしょうか。上の図ではない、下の図の3つの関係が正しいのだと、両親はここで明示しているのではないでしょうか。

医師らが論文に書いたことを、両親はブログで否定していることになります。「医師らと両親の言うことは同じ」だとの予見はやはり危険なようです。