他児への適用を巡る医師発言の変遷 2

1月にメディアの取材やインタビューに対して医師らが繰り返しているのは、おおむね
「自立歩行の可能性がなく重篤な知的障害も併せ持った重症児に対しては、
こうした医療介入を行っても悪いとは思えない」という主張のように思われます。

そのトーンは
「だから、(アシュリーの両親が提唱しているように)広くやればいい」という方向ではなく、
「だから、アシュリーに対してやったことは正当化されうる」というディフェンシブな方向のようです。

論文で何度も繰り返し必要を説いたセーフガードへの言及はなくなり、
その代わりに以下に見られるような微妙な言い回しが多くなります。

虐待となる可能性は?

はい。虐待となる可能性はありますね。医療で行うことの多くに虐待の可能性はあるわけですから。今回のことは非常に慎重に使った治療なのです。もっと広く使われることになったら私は心配ですね。たとえばダウン症の子どもに成長抑制を使おうという人がいたら賛成しません。だからといって、虐待の可能性があるから誰にも使ってはいけないということにはなりません。

1月11日CNN

Diekema医師はいくつかの発言において、
ダウン症の子どもを「適応外」の例に挙げていますが、
その一方で彼は「なぜダウン症の子どもは適応外なのか」を解説するつもりも、
「どこにどのように線を引くのか」といった問題を分析してみせるつもりもないようです。

翌12日の「ラリー・キング・ライブ」においては、
「仮に手術するにしてもセーフガードがあるべきだ」と強く主張する障害当事者のJoni Tada に対して、
「アシュリーはジョニたちのような障害者とは違う、
自分の気持ちを表現することも理解することもない、
ずっと生後6ヶ月のまま両親に依存し続けるのだから」と反論します。

これもあくまで今回のケースのディフェンスではありますが、
セーフガードの必要を否定するかのような発言になっています。
つい2ヶ月前には、自分自身が論文の中で再三にわたってセーフガードの必要を強く説き、
ジョニと全く同じことを言っていたのは忘れてしまったのでしょうか。

そして、
WPASの調査によって手続きの違法性を公式に認めさせられてしまった後の、
5月16日WUでのシンポ。

Anita Silvers氏がプレゼンテーションの中で「思考実験」として挙げた2例は、
この処置の適用に当てはまらないと会場から反論した際、
Diekema医師は「この療法には厳密な基準(strict criteria)がある」とまで、ついに言い放ちました。

彼がその時に挙げた基準とは
重篤かつ永続的な認知障害 profound, permanent cognitive impairment」と
「歩けないことnon-ambulatory」の2つです。

医師らの発言の時期ごとの変遷をまとめてみます。

2006年10月の論文
恣意的な適用を懸念
倫理委員会の検討のみでなく
施設内審査委員会の関与まで含めたセーフガードが望ましい

      ↓

2007年1月 親のブログが出て後
上記のようなセーフガードへの言及は消える
アシュリーのような歩けず知的障害の重い子どもには、やっても構わない
(あくまで今回のケースへのディフェンスとして障害像が語られている点に注意)

      ↓

2007年5月 手続きの違法性を認めさせられて後
この療法には厳密な基準がある
(ついにデイフェンスの範囲を超え、他児への適応を明確に前提とした発言が出てしまった)


こうした発言の変遷は、
医師らが次々展開する思いがけない周辺状況によって、
論文執筆段階では持っていた医師としての良心の呵責を、
段階的にかなぐり捨てざるを得ないところへと追い詰められていく姿
……だとは、見えないでしょうか?

そして今や、医師らがもはや後には引けないところに追い詰められてしまったために、
どこにもそのような検討を行った形跡などない「厳密な基準」が
いつのまにか出来ていたことになるとしたら、
これは非常に危険な兆候なのではないでしょうか。