親と医師は言うことが違う ③論文の挙げる”なぜ”

これまで、あちこち横道に逸れながらでしたが、「アシュリーはどのような子どもなのか」という点と、「アシュリーに対して何が行われたのか」という点について事実関係を確認してきました。そして、その中から、両親と医師らの言っていることが食い違っている点を指摘してきました。これから「アシュリーにそれらの処置が行われたのは何故か」という点について眺めていくと、両親と医師らの言うことは、さらに大きく食い違ってきます。また、それぞれの発言内容の食い違いのほかに、今回の処置を説明するに当たっての両者の姿勢とトーンにも大きな違いが感じられてきます。そちらにも注意を払って資料を読んでいきたいと思います。

まず、論文が述べる「アシュリーにこのような処置が行われたのは何故か」。

先にも「アシュリーはどのような子なのか」で引用したように、論文の「なぜ」に関する部分では、内分泌の初診時点でアシュリーには陰毛が生え胸も大きくなり始めていたこと、背もそれまでの半年で本来の背の高さの50%から75%にまで伸びていたこと、そうした急速な成長と思春期の始まりに両親が将来への不安を覚えていたことが触れられています。さらに、このままの成長が続いたら、家で世話をしてやりたいと願っているにも拘わらず、「最後には“赤の他人の手に託す”しかなくなるのではないかと両親は案じていた。また思春期の健康上の問題、とりわけメンスの始まりについても心配していた」と書かれています。
以上が論文の述べる、アシュリーのケースに関する「なぜ」です。

また「倫理の議論」の中で、一般的な成長抑制療法のメリットとして、介護負担の軽減、体を動かす頻度が上がることから健康上の問題が起こりにくくなること、家族行事に参加しやすい、介護機器を使用するより親に直接移動させてもらえる、などを挙げ、最後に「サイズだけの問題ではないが、親によっては成長抑制は家庭で子どもを介護できる期間を延長する機会を与えるだろう」とも書いています。

この中で問題にしたいのは、アシュリーのケースについて書かれている部分の「両親が案じていた」2つのこと。
1つずつ検討してみます。

まず最初の「最後には“赤の他人の手に託す”しかなくなるのではないかと両親は案じていた」の部分。この文脈には「倫理の議論」で述べられている「家で介護できる期間を延ばしたかった」という含みがありますが、両親はこの両方について、ブログの中ではっきりと否定しています。「家で介護できる期間を延ばしたいからとやったことではありません。アシュリーがどんなに背が高く重くなったとしても、私たちは彼女のケアを赤の他人に託すなどということは決してしません。極端に言えば、仮にアシュリーが300ポンドになったとしても、私たちは家でケアするし、ケアする方法を工夫します」と書いているのです。特に「家で介護できる期間を延ばしたいからとやったことではありません」の部分はゴチックにしてまで強調しています。

ここでもまた、「親と医師は言うことが違う ②3つの処置の関係」で取り上げた「成長抑制はアシュリー療法の1つの側面に過ぎません」という発言と同じく、両親は医師らが論文で言っていることをきっぱりと否定していることになります。

次の「思春期の健康上の問題、とりわけメンスの始まりについて(両親は)心配していた」という記述は、論文の中でも非常に不可解な箇所です。なぜなら、この1文は、論文の中の他のいずれの箇所とも繋がっていないからです。

我々は現在、子宮摘出は生理と生理痛をなくすことが目的だったことを事実として知っています。(これは両親がブログでそう明示してくれたおかげ。これは案外に重要な事実だと私は考えています。)知った上で読むと、当然この記述は我々の意識の中で子宮摘出と結び付きます。しかし、この論文が発表された時点では両親のブログはなく、読む人にとっては論文に書かれていることがすべてだったことを思い出してください。この段階では、2ヵ月後に両親からあれだけの情報が出てくることは誰も予想していませんでした。予備知識なしにこの箇所を読んだ人が、果たしてこの記述を子宮摘出と結びつけたでしょうか。

これまで再三指摘してきたように、これは子宮摘出についてはわずかしか触れることのない、成長抑制についての論文です。少なくとも、そのように装って書かれています。そんな中で、この「思春期の健康上の問題、とりわけメンスの始まりについて(両親は)心配していた」という記述は、前後の脈絡とは全く無関係に投げ込まれたかのように見えます。そもそも論文のこの段階では、まだ子宮摘出そのものが登場していません。メンスの始まりについて「何が」心配だったのかが説明されているわけでもありません。その心配が子宮摘出と関連していることにも一切触れません。ただ「親がメンスの始まりについて心配していた」という事実の断片だけが、ここにぽんと提示されているのです。まるで、子宮摘出の本当の理由を隠蔽し、ホルモン療法の副作用軽減のためであるかのように装って書く自分自身の後ろめたさに対して、この1文を投げ込むことによって「一応は本当の理由も書いた」と言い訳でもしたかったかのように。