「死体は見世物か 『人体の不思議展』をめぐって」を読んだ



この問題は当ブログでも08年から
折に触れて以下のエントリーで取り上げてきたもの。



著者は 「『人体の不思議展』に疑問を持つ会」の中心となって
批判活動を続けてこられた末永恵子氏。

以下の論文を書いておられて、
「『人体の不思議展』の倫理的問題点について」「生命倫理」20 (2009)

私も、11年5月の補遺にこの論文をリンクした際に読んでいたので、
この本が出たことを知った時に、お名前には記憶があった。

福島県立医科大学講師。
日本の植民地における医学史を研究しておられるとのこと。

当ブログの問題意識も同じような方向だったから、
京都での訴訟の結末に釈然としないものを感じて以来、
いつか誰かがこういう本を書いてくれるのを待っていたけれど、

これは実に骨太の告発の書です。

また驚いたのは、なんと、著者にこの本の執筆を勧めたのが
あの「重い障害を生きるということ」の高谷清先生だったということ。

高谷先生は昨今のパーソン論の広がりを危惧しておられる
元・びわこ学園園長。なるほどなぁ……。

人は、強い思いを抱えて
どうしてもやらないでいられないことと取り組んでいると、
会うべき人と巡り会うんだなぁ、と、ちょっと感動してしまった。

そして、医療の世界の中にも、
科学とテクノの簡単解決文化とその利権構造が突き動かしていく世の中に疑問を抱き、
様々な形で異議申し立てを続け闘っている方々があるのだということ、

著者や高谷先生をはじめとして、思いを同じくする各界の人たちが集まって、
人体の不思議展を中止に追い込んだということ、

そして、そういう粘り強い闘いの成果として、
この本が生まれたということが、
何よりとてもすばらしいと思う。

それだけに、
著者が詳細に調べ上げてこの本に取りまとめている、
人体の不思議展の背景の根深さ、医療界、行政、マスコミの余りの恥知らずには、
ほとんど茫然としてしまうのでもある。

なにしろ、問題のプラスティネーション技術を開発し、
その後BODY WORLD展でショーバイに精を出しているのは
ドイツのグンター・フォン・ハーゲンスだけれど、

その標本を展示公開した世界で最初の国は、実は日本だったとは……。

1995年、日本解剖学会がハーゲンス作成の標本を借りてきて
一般市民を対象に展示を行った「人体の世界」展。

言いだしっぺは、あの養老猛司先生。

展覧会の目的は、将来日本でもプラスティネーション標本を作りたくて、
そのための献体者を得るための、いわば宣伝、啓蒙、地ならしだったという。

そしてこの時に既にプラ標本は様々なポーズを取らされたり、
胎児や妊婦の身体がスライスされたりしている。

興味深いのは、この2年後の97年に臓器移植法が成立している当時の時代背景。

その後、世界中で最も誠実にこの問題における遺体の尊厳について正面から検討し、
最高裁が最終的に違法と判断したフランスでの議論で、主催者側が
臓器提供の推進のためにも死体に対するタブーを打ち破るべきだと
主張した(p.146)と書かれているのも、興味深い話だ。

さらに私が目を引かれた一致は、
織田敏次という医師が書いた「『人体の不思議展』に関心とご理解を」という文章で
「ありのままの人体に触れるのも、先人が子孫に残した心暖まる贈り物」と書いている点。

「科学とテクノの簡単解決」文化時代の医学の世界では、臓器提供も代理母も、
同意なき遺体の加工や展示という、こんなあからさまないのちの冒涜までが
こんなにも簡単に「贈り物」に祭り上げられてしまう。

ともあれ日本解剖学会による「人体の世界」展の大成功に目をつけて
金儲けを考えついた人たちがドイツからハーゲンス作成の標本を買ってきて
翌96年から始めたのが「人体の不思議展」。これも大成功。

99年にハーゲンスと金銭問題でトラブルとなると、
主催者らが目をつけたのが中国の、似て非なる(ならぬのかも?)技術でプラストミック標本。

死刑囚や政治犯からの臓器摘出で名を馳せた中国のこととて、
標本に使われている死体の出所は誰が考えたって怪しいのだけれど、

その買い付けにも医師がかかわっていたし、
各地の医師会が共催したり広告塔役や各会場での解説役など、
直接的・積極的に協力し、巡回展示を支えた医師らが少なくない。

監修委員会には、日本の医学、歯学、看護分野の重鎮がずらりと並んで
死体の展覧会に箔をつけた。

日本赤十字社、日本医学会、日本医師会日本歯科医師会日本看護協会が後援。
地方での展覧会では地元の医師会、歯科医師会、看護協会が後援。

つまり日本の医学会は、解剖学会の展示から始まり、その後、商業展示として
どんどん恥知らずな“興行”(著者の表現ではなくspitzibaraの印象)と化していく間、
「医学会を挙げて応援していたと言っても差支えない」(p.101)。

その後、全国的な批判の広がりを受けて、
こうした団体は後援をやめるのだけれど、そこには一切の説明も謝罪もない。

(ここで私の頭に浮かんだのは731部隊に所属していた人たちが
終戦後に日本の医療界の重鎮に居座ったという話だった。
この本の中でナチスはちょっと言及されているのだけど
731部隊についてはまったく言及がないのが私にはちょっと不思議)

一方、04年、05年と、
主催者から東京大学へ合計8400万円の寄付が行われている。

著者はレイチェル・カーソン
「餌をくれる飼い主の手を噛む犬などいない」という言葉を引用し、

利益相反を見事に比喩したこの言葉が、
人体の不思議展』の主催者と研究者との関係をも言い当てているだろう」(p.100)と書く。

重大な倫理問題が、
いかにももっともな理屈と名目をつける「専門家の権威」によってスル―され、
巧妙に言い抜けられていく様は、まさに現在の生命倫理の各種問題とそっくりで、

当ブログで散々追いかけてきた、ビッグ・ファーマと研究者の癒着、
慈善資本主義の利権に群がる科学とテクノの研究者と企業の利益相反……。

そこでも医学会だけでなく、行政もマスコミも同じ穴の狢で……。

これらはアシュリー事件の議論や背景の構図にもそのまま通じている。

どの問題でも、実はさほど「巧妙に」言い抜けてなどいないのに通ってしまうのは、
彼ら権力と利権の側が、一般の我々のゲスな欲望を食い物にすることで、
我々一般人の方も自分の中にある欲望をどんどん肥大化させられて抑制が利かなくなり、
倫理問題や法律問題をなし崩しに不問にすることに
一緒に加担していくからではないんだろうか。

「どうせ」と思っているゲスな自分をみんなで一緒になって解放すれば
一般人はそれぞれに自分よりも弱い存在を踏みつけて
自分だけが美味しい思いをできる(したと錯覚させられる)し
一般人がそっちに雪崩を打ってくれれば、それでがっぽりと稼ぎつつ
メディカル・コントロールをさらに根付かせて
グローバル支配を確実にしてゆける人たちがいる。

この死体の展覧会をめぐって
米国があくまでも個人の選択権重視に動き、
フランスが死体の尊厳にこだわり違法とみなしたことは象徴的でもある。

もっとも、グローバルな科学とテクノの利権の前にはフランスの生命倫理
結局は英米の後追いを強いられていくしかないのだろうという気はするし、

その点で、あとがきにあるように
「弱者からの搾取と身体の商品化という問題は表裏一体」(p.197)は
グローバル強欲ひとでなしネオリベ金融(慈善)資本主義そのものを
ズバリと言い現わしている。

人体の不思議展に関わった医療界の団体や個人を実名で批判したことについて
著者は「医学界がレッドマーケットの搾取性と決別するため」と書いている。

「レッドマーケット」とは、スコット・カーニーの命名
人骨、臓器、卵子、血液、代理母、毛髪、養子縁組などを扱う市場のことで、
カーニーは「レッドマーケットには、人体が必ず
社会の下の階層から上の階層へと動いていく、という
不愉快な社会的側面がある」と書いているという。

死体の尊厳の問題は、
レッドマーケットで搾取される社会的弱者の尊厳にも繋がっているし、

アシュリー事件であからさまに否定された重症障害者の尊厳にも、
尊厳死をめぐる議論でなし崩しに否定されていく「生きるに値しない命」の尊厳にも
そのまま通じていく。

つまり今の世界で起こっていることは、みんな一つのこと。

だからこそ
行政やメディアを巻き込んでメディカル・コントロールが敷かれていく事態の恐ろしさに
そろそろ私たち一般人も気付かないと、と思うのだけれど、

この頃は、もう
ポイント・オブ・ノー・リターンはとうに過ぎてちゃったよね……という気がしている。