フランス生命倫理における「連帯性」

フランスでの“救済者兄弟”事情について、先日以下のエントリーで取り上げましたが、


その中でアブストラクトのみで触れていた小出泰士氏の論文
「『薬としての赤ちゃん』の倫理問題 - フランス生命倫理における人間の尊厳と人体の利用」を
わざわざコピーして送ってくださった親切な方があり、
お蔭様で全文を読むことが出来ました。

前後の脈絡も背景も無知なままなので理解は不十分と思いますが、
私が個人的にこの論文から印象的だったことを以下に。

フランスの生命倫理では民法典の中に「人体の尊重」という節が設けられており、
その16条に規定されているのは、

法律は、人間の優位性を確保し、
人の尊厳に対する一切の侵害を禁止し、
人をその生命の始まりから尊重することを保障する

その基本方針から導かれる2つの原則として、
他者の「身体の不可侵」自分の「身体の不可処分」

したがって、これらの考え方に基づけば、
英語圏生命倫理が錦の御旗としている自己決定権・自律の尊重は
フランスではこの尊厳や人体の尊重によって制約を受けることになるはずなのだけれども、

そこには、どうやらタテマエとホンネの使い分けがあって、
(というのは私の解釈で、こんな下品なことは小出論文にはもちろん書かれていません)

一方でフランスは人体の利用にはもともと積極的で、1947年の早く(本当に早いっ)から
本人の生前の拒否が明らかでなければ死後の人体を医学研究に利用できるものとする、
いわゆる「みなし同意」(論文では「推定同意」)による死体利用を行政命令で定めている。

この「みなし同意」が死体からの臓器摘出ルールとして適用されたものが
1967年の「カヤベ法」。

こういう経緯があってのことだから、
当然94年の「生命倫理法」でも死体からの臓器提供ルールは「みなし同意」。
「人体の統合性を侵襲できるのは、人の治療の必要がある場合のみ」とされる箇所は
本人だけでなく他者の治療の必要にも拡大解釈された。

そして2004年の改正で
「人体の統合性を侵襲出来るのは、
人に対する医学的な必要がある場合、又は、例外として他者の治療のためにのみである」と、
文言が追加されて、さらに明確に拡大された。

私は、
94年に「人の尊厳」タテマエの大看板を上げた「生命倫理法」が
その後10年間の科学とテクノの発達と国際競争をにらんで、
2004年にはホンネ実現に向けて大きく方向転換したという印象を受けるのですが、

この2004年の法改正の際に、
それまでは原則禁止とされてきた、生きている未成年者からの臓器摘出についても
例外的に「レシピエントを直接治療するため」であれば兄弟姉妹からの摘出を、
「他に解決法がない場合」であれば骨髄の採取を、可能にした。

この点について「患者の病気の治療による利益が、
未成年の兄弟姉妹の心身の統合性の保護よりも優先されている」と小出氏は指摘している。

もちろん、タテマエとホンネのギャップを覆い隠すためには
何らかの仕掛けが必要になってくるわけで、そこで持ち出されているのが
フランスではどうやら「連帯性」という概念。

これが、なかなかに、すごい概念で、

社会に暮らす個人は、
社会に暮らすことで既に社会から恩恵を受けている、
あるいは恩恵を受ける可能性がある以上、
自らも社会に恩恵を返す義務がある。

うぇ……これは、怖い。

だって、例えば、私たち夫婦は
少ないながら応分の税金はごまかしたりせずに、ちゃんと払っているのだけど、
でも、それだけじゃ足りない、身体で払わなきゃダメだよって言っているわけですよね、
このフランス生命倫理のいう「連帯性」というのは?

こんなのを言い出されると、私みたいな気の弱い人間は、
重い障害のある子どもの親として、社会で生きていくことそのものがものすごく辛くて、
世の中を出歩くたびに「恩恵いただき、ありがとうございます」と皆さんに頭を下げ、
「恩恵もらうだけで、ごめんなさい」と小さくなっているしかなくなってしまう。

こんなブログでこんな理屈を垂れていることなど論外で、
「みなし同意」どころか生きているうちから
「どうぞ、どうぞ、こんなんでよかったら、何でも使ってください」といって
自ら進んで全身を差し出さなければ許してもらえないようなプレッシャーがかかりそうだ。

(本当にそういう方向に向かっている気配が世の中の空気に漂っていなくもないから
よけいリアルに、これは、こわい)

しかも、「恩恵を受ける可能性」というように
ここでの連帯性は「潜在的な恩恵」を通じた連帯性として拡大して捉えられていて、
仮にあなたが病気で臓器が必要になれば人からもらうかもしれないし、
あなたの病気の治療法方そのものが多くの人の協力による研究の賜物なのだとしたら
あなただって受ける可能性のある、そのような潜在的な恩恵に対して
恩恵を返すことによって協力し、連帯すべきであろう……と。

この連帯性を家族の中に当てはめると、
2004年の法改正で容認された救済者兄弟についても
もし立場が逆で、たまたま自分の方がその病気であったとしたら
両親と医師はその次の子どもを産んで同じように助けてくれる可能性があるのだから、
たまたま自分の方が助ける側に回った場合にも、兄または姉の治療に協力するべきだ……
という理屈になるらしい。

しかし、この理屈は、兄弟ともに、自然に生まれてきて、
たまたま後から生まれた方がドナーになれるという場合にしか当てはまらないんじゃないだろうか。

救済者兄弟の場合、
「恩恵を与える存在」となる遺伝子配列を持っていたことが生命の根拠であるわけだから、
この子に協力を強制する理屈の中に「たまたま」などという偶然の仮説を忍び込ませるのは
ものすごく卑怯なことのような気がする。

余剰胚の研究利用についても
「胚の生みの親と、決して生まれるよう呼びかけられることのない生命と、
こうして行われる研究から恩恵を受けるかもしれない人々の間の潜在的連帯性」によって
正当化されるんだそうな。

「決して生まれるよう呼びかけられることのない生命」というのは
「どうせ誰も欲しがらない生命なんだから棄てちゃっていいよね」ということの政治的な言い換えですね。

例えば、世界で最初の救済者兄弟を作るための選別には30個の胚が作られたというのだけど、
(この話は、今読んでいる資料の中にあるので、詳細は次のエントリーにて)

そのうち29個、つまり圧倒的多数は、最初から、
社会で暮らす恩恵を受ける可能性を完全に奪われていたのに、
そういう胚にまで「潜在的連帯性」を負わせることが出来るものなんだろうか。

おそらくは廃棄されることを前提に人の都合で勝手に作られて、
そのまま実験に使われて、予定通りに廃棄される胚にまで
都合よく潜在的連帯を負わせる……。

最先端科学の国際競争に打って出るには、なりふりも建前もかまっていられない……
そういうホンネの正当化のために、どの国の生命倫理も、なんと浅ましい詭弁を弄することだろう。

小出氏は、このような連帯の原則に対して、
1998年にEUの生物医学第2プロジェクトが公表した「バルセロナ宣言」の
4つの倫理原則を挙げる。

傷つきやすさ(vulnerability
自律(autonomy)
尊厳(dignity)
統合性(integrity)

そして、連帯の原則が過度に重視され
生まれてくる子どもの尊厳、統合、傷つきやすさがおろそかになっている、と批判。

「連帯性の原則を自律や尊厳の原則に優先させるような社会は、
本当によい社会とは言えないのではあるまいか」と。


私は、このフランスの「潜在的連帯性」で、また
北九州でおにぎり1つが食べられずに餓死した、あの男性のことを考えた。

私はフランスのことは、全くわからないけど、

英語圏生命倫理が錦の御旗に掲げる自律・自己決定権が
「生きる」という方向の自己決定には支える方策の道を閉ざして
「死ぬ」という方向にだけ道が開かれた自己決定権であるように、

フランスの連帯もまた、
貧困や雇用、障害者・高齢者・子育てなど医療や福祉・社会保障という文脈に持ち込まれることのない、
最先端医療を前に推し進めていく生命倫理の文脈においてのみ持ち出される連帯なのだとしたら、

それは、えらくご都合主義の連帯原則ではないか、と思う。

それとも、フランスでは
「たまたまフランスに生まれただけで自分だって移民になっていたかもしれないから」
という連帯の原則で移民労働者への差別問題が熱心に取り組まれ、

「たまたま障害を負わずに生きているだけで、
自分だって障害を負っていた可能性はあるし、これからだってあるのだから」と
どんな障害を負っても自分らしく地域で暮らせる社会作りが推進されて、
支える医療も福祉・介護サービスも充実しているのかしら。