医師は障害者のことは案外知らない

前のエントリーで紹介した福祉職の人の
「医師は障害者のことについては知らない」という指摘について。

この指摘を意外だと感じる人も多いかもしれないのですが、
逆に障害者や高齢者の医療・福祉の現場で働く医師以外の職種の人にとって
また本人や家族にとっては、
これは案外に広く共有された「常識」であったりする面もあると思うので
(あからさまに口にする人は少ないとは思いますが)
そのことについて個人的に日ごろ考えていることを。

医師は病気や障害については知識を持っていますが、
障害と付き合いながら暮らしている生身の障害者と
長時間にわたって直接的に関わるわけではないので、
案外に障害者自身については知りようがないのではないか、
と思うのですね。

例えば病院や施設で働くドクターが
実際に障害のある人たちが暮らしている生活の場に1日に何度足を踏み入れるでしょうか。
1度訪れた際に、どのくらいそこにいるでしょうか。
また、その時間をどこで過ごしているでしょうか。
(デイルームとか病室・居室より、ナースステーションにいる時間が長いのでは?)

患者や利用者である障害者の
現在の体調についてのデータはもっているし
彼らの病気や障害については、もちろん他の誰よりも詳しいでしょうが、
例えば

その人の体調が崩れ始めた時に、その人特有のどんな変化が起こるか

(ある人は体のねじれがひどくなる、
ある人は目元が赤らんでくる、
ある人は、日ごろ人の顔さえ見れば求める握手を求めなくなる、など)

その人が苦しい時に、それをどうやって訴えるか

(ある人は特定のトーンの音声で訴える。
 ある人は目の動きでしてもらいたいことを訴える、
 ある人は指の動きでYes―Noの意思表示ができる、など)

体調が悪い時に、その人はどうやってもらうことを好むか。

(ある人は背中をさすってもらうのが好き、
 ある人は好きな音楽を聴くと気がまぎれる、
 ある人は発熱時には些細な音も不快に感じる、
 ある人は食欲がない時でもマカロニサラダだけは食べる、など)

これらは実際にその人に直接触れてケアし、
日々、長時間にわたって密接に関りながら
共に過ごしてきた人にしかわからないことなのです。

前回のエントリーで紹介したエピソードで
栄養の管を抜かれた知的障害のある人が
自分の回復振りを福祉職にだけ訴えたとされているのは、
そういう背景があってのことのように思います。
また医師にも実際は訴えていたとしても、
日ごろ、その人特有のコミュニケーションの方法になじんでいない医師には
それが意思表示であることそのものが理解できなかったかもしれません。

もちろん、医師には医師の役目があるわけだし、
多忙な医師にそこまで知れと要求するのも酷でしょうが、
そういう努力をする医師がいることも事実です。
また、特定の患者について検討する際に、
「自分よりも現場の職員の方がよく知っていることも多い」と考えて
直接処遇に当たるスタッフの意見に耳を傾け尊重する医師も
少しずつ増えてきているようにも聞きます。

障害のある患者を前に何らかの決定を行わなければならない時、
「目の前の“この人”のことを自分はどれほど知っているだろうか……」と
医師に時に自問してみてもらえると、
医療と福祉の連携はもっとスムーズにいくし、
なによりも当事者本人たちのためなのだけれど……
と私はいつも願うのですが、

Ashley事件にも見られるように、
医療の世界には
看護職・福祉職・教師など医師以外の職種が果たす支援の役割を
過小評価する傾向があるのではないでしょうか?