シンガー、認知症の母親の医療について「自分の母となると違う」(1999)

前に、ピーター・シンガー
ストーニーブルック大学の認知障害カンファで、アシュリー事件に言及したり、
エヴァ・キテイが障害のある娘セーシャが暮らすコミュニティへの見学ツアーに誘ったのを
「そんなのを見て何が学べるのか」と断ったりした際に(詳細は文末にリンク)、
あれこれ検索した中で偶然に拾って、興味を覚えつつ、
そのまま見失ってしまったので、いつか探しておこうと思っていた情報。

当事私が読んだのはまた別のサイトだったのですが、
シンガーのお母さんが認知症で云々、というその話を、
NDYのブログでStephen Drakeが2008年に書いていました。



Drakeのエントリー趣旨は、
Golubchuk(無益な治療)事件でシンガーがコストをあげつらって
医療職の決定権を支持する主張をしたことについて、
以前のDavid Glassの無益な治療事件についてのインタビューでは
「本人と家族の意思を無視して医療職が勝手に決めるのは自律の侵害だ」と
繰り返し強調していることと矛盾している、と突っ込み、

ファンはそう言うのに気付かないだけで、
もともとシンガーの発言は矛盾だらけ、
その場その場で最も受けることを読んで発言しているだけの
ご都合主義だと批判するもの。

Golubchuk事件でのシンガーの発言はこちらに ↓
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)

David Glass事件については、Drakeは
とてつもなく長いテレビ番組(2003)のトランスクリプトをリンクしている。
そのタイトルがSinger: Dangerous Mind

で、それを受けてDrakeは
いや「危険なマインド」というより
「言うことがコロコロ変わるすべり坂のマインド」なんだ…と
付けたエントリーのタイトルが、Peter Singer - Slippery Mind.

Drakeが「無益な治療」論での自律の扱いのほかに、
「言うことがコロコロ変わる」例として挙げているのが、
認知症になった母親の医療についてのシンガーの発言というわけ。

1999年のNew Yokerの取材ではシンガーは以下のように発言している。

I think this has made me see how the issues of someone with these kinds of problems are really very difficult.

これ(spitzibara注:母親の病気という体験)によって、
認知・知的障害を抱える人の問題というのが実際いかに難しい問題なのかということが
私にも分かったと思う。

Perhaps it is more difficult than I thought before, because it is different when it’s your mother.
たぶん私が前に思っていたよりも、ずっと難しい問題。
なぜなら、自分の母親となると話が違ってくるから。


ところが、翌年の2000年にReasonという雑誌のインタビューでは
「その意思決定に関わったのが自分だけだったら
母親はいま生きていなかっただろうけど、姉(妹?)がいるから」と答えている。

とても興味深いのは、
Drakeのこのエントリーに対して、Wesley Smithがコメントして
母親に関しては、どっちも真実だったんじゃないか、と言い、
Drakeがそれに対して、いや、Singerは発言の場を考え、
自分の発言が届く層によって一番受けそうなことを言っているだけだ、と返している。

Smithは上記の2003年の番組に出て、
自殺幇助と安楽死を批判する文脈でこのエピソードを紹介し、
いかなシンガーでも母親に対する愛情があったということは
彼がいずれ過ちに気付き訂正する可能性があるということであり、希望だ、と
語っている。

その個所を抜くと、以下。

The ironic thing was that when Peter Singer’s mother got Alzheimer’s disease, and ceased, in his view, to be a person, he couldn’t have her euthanized. He said, well, it’s different when it’s your mother. Well, that just says that Peter Singer was raised well. Sometimes I think you can take the boy out of the sanctity of life, but you can’t take the sanctity of life out of the boy. Peter Singer proved that he had love in his heart by the fact that he wouldn’t kill his mother, and, in fact, that gives me hope that Peter Singer, someday, will see the error of his ways and realize that either all human life is equal, or none of it is equal.


ここで(2003年に)Smithが言っていることは、
やっぱりちょっと甘っちょろいんじゃないかと思うけれど、
でも、どちらも真実だったんじゃないかという2008年の彼の発言は
意味深いという気がする。

誰にとっても自分の愛する家族の終末期の医療を巡る判断というのは
他人の医療を巡る判断とはまるきり別の話になるだろうし、
まして一般論としての「終末期の人」の話とは
まるきり別の話であって当たり前だと思う。

それに、
終末期の人の医療を巡る意思決定に関わるのが
自分一人だけというケースもあるだろうけれど、
たいていは関わる家族も関係者も複数いて、それぞれの関係にだって
それなりに年月の間に積み重ねられてきた複雑なものがあれこれ絡みついている。

そういうふうに、人が一人、生まれた時から
いろんな人と関わりながら生きてきて死ぬまでの間には
外からはうかがい知れないほどのややこしい事情やいきさつやしがらみが
魑魅魍魎のように絡みついているんであって、

でも人が関係性の中にあるというのはそういうことだし、
だからこそ「わたし」と「あなた」とか「わたしたち」という関係が
そこにはあれこれと輻輳しながら生じているわけで、

シンガーやサヴレスキュやトランスヒューマニスト
人をまるでバラバラに切り離されて存在する個体でしかないように、
しかも、それぞれが単なる機能や能力の総和としての個体ででしかなくて
能力が高くなればそれだけ、その個体それぞれが
それぞれにバラバラのところでハッピーになる……かのように
描いてみせるけれど、

それは、やっぱり違うんじゃない? と
これはもう何度も何度も何度も、そう思う。

やっぱり人間は人との関わりの中で、
「あなたにとってかけがえのない私」、「私にとってかけがえのないあなた」という
「かけがえのなさ」を生きている存在なのだと思う。いい意味でも悪い意味でも。

「自分の母親ということになったら話が違う」というのは、そういうことだし、

その一人の母親の終末期の医療を巡っても、
そこには自分の「私にとっての母」と兄弟それぞれにとっての「私にとっての母」がいて、
さらに意思決定を巡っては、私と兄弟それぞれの「私にとってのあなた」の関係が絡まってくる。

さらに、母と自分と兄弟がそれぞれに絡まりつかせている人との
複雑な関係性にまつわる歴史や事情やいきさつや思惑や、いろんなものが
金魚のウンチ状態になっている。

人はそんなふうに生きているし、

だからこそ、
単なる「機能と能力の総和としての個体」なんかじゃない。

だからこそ、人が幸福かどうか、
誰かの生が生きるに値するかどうかなんて、
その人の能力で決められるものじゃない。



ストーニーブルック大でエヴァ・キテイが中心になって開催した
2008年の認知症カンファに関連したエントリーはこちら ↓