「障害者の権利と動物の権利を一緒にするな」とNDYのStephen Drake

障害者と動物は、社会の神経学的ノームから外れているという全く同じ理由によって
社会から差別され、価値を貶められて、様々に抑圧されているのだから、
障害者の権利と動物の権利とは繋がっていて、相互依存の関係にある、と
主張する人たちが出てきているらしい。

NDYのStephen Drakeが批判のポストを書いている。



Drakeの基本姿勢としては、まず
障害者の権利と動物の権利を一緒にすることに何のメリットがあるのか
特に障害者に何のメリットがあるのか、というもの。

彼が具体的に取り上げているのは
アスペルガーで、動物の権利アドボケイトであるDaniel Salomonが書いた
「動物の権利と自閉症のプライド:対立を癒そう」という以下の文章。



Salomonが冒頭、動物倫理の社会的認知におけるPeter Singerの功績から
話を起こしている点について、Drakeはまず、

「一見、障害者の権利アドボケイト寄りに見える記事が
Singerへの称賛から始まっていたら、ろくなことにはならない」

(私は「そーだ、そーだ!!」と、この個所で盛大に拍手した)

Salomonはこの文章で、自閉症も動物も、
神経学的典型をスタンダードにする社会に適応できないことを理由に
差別され、同じタイプの抑圧を受けているのだから、
両者の権利は相互に対立するのではなく、
相互に結び付き、相互に依存する関係にある、と説いている。

Drakeの具体的な批判の論点としては2点で、
その内容はおおむね、以下のような感じ。

Salomonは自閉症のみについて語りながら障害者一般の権利へと話を広げているが、
動物の権利はアドボケイトが一方的に定義し提唱しているもので
それに対して動物の側から異議申し立てが起こることはあり得ない。
自閉症のアドボカシーにおいては活動に対して当事者から異議申し立てが起こってきた。

それからしても、
動物の権利アドボケイトが話を結び付ける障害者の権利における障害者とは
実際には重症の認知障害のある人たちになる。

シンガー以外にも、我々の社会には
高齢者、病者、障害者、特に重症の認知障害のある人たちを
殺すことに賛成する人たちは、現在、恐ろしいほどの数になっている。
そういう人たちは自分たちの主張を正当化する際に、
ペットなら苦しまないように殺しているじゃないか、と
ペットの安楽死を引き合いに出してくる。

しかし、ペットが死に瀕して苦しんでいるから安楽死させるというのは
単なる神話に過ぎない。

実際、動物擁護組織PETAの施設内では殺処分の件数が非常に多く、
その理由に挙げられているのは、長年の虐待でペットと呼べない状態の動物の他、

They were aged, sick, injured, dying, too aggressive to place, and the like
「殺処分されたのは高齢だったり、病んだり、怪我をしていたり、死に瀕していたり、
置いておくには余りに攻撃的であったり、そういうペットたちで」

こういうペットだから死なせてやったのだという論理を
そのまま重症知的障害のある人間に当てはめたら一体どういうことになる?

人間の無責任な行動が、そうしたペットの増え過ぎを招いて
限られた資源の中では殺処分するしかなくなるのだから
人間の動物に対する扱いを変えなければならないという主張には一理あるが、
増え過ぎて資源を食うから殺すと言われるなら
その問題が最も深刻なのは動物よりも人間だろう。
抑圧され、スティグマを貼り付けられ、虐待やネグレクトに遭い続けてきた知的障害者が、
動物と従妹同士みたいに扱われると一体どうなる?

被虐待的な処分施設を設計したアスペルガーの動物学者
Temple GrandinをPETAは表彰したが、
私がもしも動物を食べることそのものに反対しているとしたら
私はそんな筋の通らないことはしない。そんなのは、
人道的な殺戮方法を選んだといって、アムネスティ
戦争を起こした人間を表象するようなものじゃないか。
全然、筋が通っていない。

障害者の権利と動物解放が相互に繋がっていると言うのも、
それと全く同じだ。全然、筋が通っていない。


このポストには、いくつものコメントが付いていて、
動物の権利擁護の立場の人が数人、長いコメントを立て続けに入れている。

面倒くさいのでまともに読んでいないけど、
Drakeの返事コメントの中でだいたい次のようなことを書いてある個所に
私は個人的に拍手した。

動物の権利擁護運動の内部でもシンガー批判はあると言うが、それは
部分的に動物を殺さざるを得ない場合があると
彼が認めていることに対しての批判に過ぎない。

シンガーに対して行われるべき批判とは、
障害と障害者を殺すことについて書く際に彼が露呈する
知的誠実の欠落(lack of intellectual honesty)に向かうべきである。
不誠実でないなら、Singerは単に不注意でいいかげんなのだ。

Drakeは動物の権利擁護運動そのものを否定することはしない。
したがって、Wesley Smithが自殺幇助合法化を批判する本を書いて、
その中で動物の権利擁護運動そのものを批判したことは
Smithの死の自己決定権に対する批判が有意義なものであるだけに
残念だった、と述べている。

しかし、だからといって、
動物の権利擁護運動が障害者と動物とを繋げて考えようとすることは認められない。
その理由を、Drakeはおおむね以下のように説明している。

15年間、NDYの活動をやってきて、なお
知的障害のある人を人間よりも劣った存在だと考える専門職や一般人は後を絶たないし、
今だに多くの人が、そういう見方をしている。

動物の権利擁護運動のメッセージに賛同することが
そうした状況にある障害者の現状をさらに後退させるものではないとは
自分には確信できない。

彼ら/我々/私は、障害者が人類の十全な一員であると認められ、
それが揺るがないものとなるよう求めていくことで、今なお忙しい。
我々はいまだにそこに至っていないのだ。

障害者は歴史の中で、不妊、搾取、廃絶(安楽死)のターゲットとされてきた。
不妊安楽死はいずれも、少なくとも、ある状況下では
動物には認められるものとされている。

重症認知障害があるとみなされている人たちを医療の現場で
まだ死ななくてもいい時期から死なせてしまわないように支援するという目的においては
あなたたちの提案の通りにすることは、後退にしかならない。

彼は、実際問題として、自分は種差別の問題にはそれほど興味を持てないとも語り、
自分の時間とエネルギーにも限りがあるのだから
自分としては時間とエネルギーは障害のある人間に注いでいくとして、
この問題については、これ以上は知らん、と突っぱねている。

         ―――――

ちょっと前に、“シンガー論者”の“功利主義者”を自称される学者の方と話をした際、

シンガーを批判する前に、彼が何故こんなことを言っているのか、
その背景にある彼の思いを理解してあげなければいけない、と言われ、
それ以来、そのことをずっと考えていた。

1ケ月考え続けて、
その人が言うことは逆だと思う、という結論に達した。

なぜなら、私ごときが批判したからといって
それでSingerが脅かされるわけでは全然ないけれど、

Singerがロクに障害について知りもしないだけでなく
誠実に知ろうとする努力を払うことすらせず
無責任に障害者から尊厳をはく奪し貶めるような発言をすることによって
私の娘をはじめ、世の中の多くの障害児・者の命や諸々の権利は
リアルに脅かされているから。

「なぜ、そんなことをいうのかを分かってあげよう」と努力する必要があるのは、
障害者運動の側ではなく、シンガーの方のはずだ。

「障害者が好戦的なことには驚いている。
障害児を殺しているのは医師であって私ではないのに彼らは私を攻撃するんだよ~」と、
まるで5歳児のような被害者意識を振りかざすのはやめて、
ちゃんと大人の学者として自分の発言には責任を取り、
なぜ障害者運動から自分が批判されているのか、その批判の背景に何があるのかを
誠実に知ろうとする努力を始めたらどうなのか、と思う。

私はシンガーの著書をまともに読んでいるわけではないから
批判する資格はないのかもしれないし、本当のところ、
私も種差別がどうのこうのという議論には興味ないです。

どんなに崇高な理想をかかげていようと、
どんなに世の中を良くしようとの善意からであろうと、Singerの障害児・者に関する
lack of intellectual dishonesty(Drake)と willful ignorance(Kittay)は
学者の姿勢として許されるべきではないと思う。それだけ。

ちなみに、私が読んだ「実践の倫理(新版)」についての疑問はこちら ↓
P・Singerの「知的障害者」、中身は?(2007/9/3)


Peter Singerにも、
彼の言説を借りて、それに乗っかることによって
自分自身の差別意識や偏見を正当化し、解き放つ学者さんたちにも
私が言いたいのは、一言。

学者なら、自分がきちんと知らないことについて、無責任にしゃべらないでください。