「安楽死やPAS合法化は、痛苦の責を患者に転嫁する」と16年前にエマニュエル

生命倫理学者で腫瘍科専門医のエゼキエル・エマニュエルについては
これまで以下のエントリーで触れてきました。



そのエマニュエルが1997年に
オレゴン州の自殺幇助合法化を批判して
the Atlanticという雑誌に論考を寄せた、ということは
上の09年9月8日の2つ目のエントリーでも書いているのですが、

今日、訳あって、そのAtlanticの論考を
遅ればせながら読んでみました。

大変長大な論考で、
基本的にはこの人はずっと同じ「4つの神話」を指摘しているのだな、と思うのですが、

とても興味深い個所が2つあったので
その2点について、とりいそぎ、メモを。

① エマニュエルは上のリンクでも紹介したように、
医師は致死薬を注射することに慣れるんだ
慣れれば例外はルーティーンになり、
ベビー・ブーマーの高齢化で財政的な圧力かかればルールになる、と
この論考で警告した人なのですが、

その先、エマニュエルが提言しているのは、

あくまでも人を死なせることは違法のまま留めておいて、
例外を認める、という方法。

誰かの命を終わらせたいと望んでいる人に対して、
あらゆる手を尽くしたことを証明する責任を負わせる。
それを証明できた場合にのみ例外として認める。

そうでなければ、
必ずや合法化によってルーティーンとなりルールとなるから。


② 次に、ここは、ほんと唸った ↓

Broad legalization of physician-assisted suicide and euthanasia would have the paradoxical effect of making patients seem to be responsible for their own suffering. Rather than being seen primarily as the victims of pain and suffering caused by disease, patients would be seen as having the power to end their suffering by agreeing to an injection or taking some pills; refusing would mean that living through the pain was the patient's decision, the patient's responsibility. Placing the blame on the patient would reduce the motivation of caregivers to provide the extra care that might be required, and would ease guilt if the care fell short. Such an easy, thoughtless shift of responsibility is probably what makes most hospice workers so deeply opposed to physician-assisted suicide and euthanasia.

医師による自殺幇助と安楽死の包括的合法化には、
苦痛の責任が当の患者にあるように見えてしまうという逆説的な効果がある。

それらが合法化されることによって、
概して病気によって引き起こされる痛みや苦しみの犠牲者とみなされている患者が、
注射を受けたり薬を飲むことに同意すれば自分でその苦しみを終わらせる力を持っているように
見えてしまうのだ。

注射や薬を拒むなら、逆に
痛みながら生きることは患者の選択であり、患者の責任ということになる。

責めを患者に負わせると、
本当はさらなるケアが必要な場合にも医療者・介護者には
それを提供するモチベーションが低下するし、
ケアが不十分であっても罪悪感は軽減される。

ホスピスで働く人たちのほとんどが
PASと安楽死にこれほど強く反対しているのは、恐らくは、
こうした患者への責任転嫁が容易に、深く考えることなく起こるためだろう。
(ゴチックはspitzibara)

Ashley療法論争の際に、
SavulescuらがHCRに書いた論文で
子宮摘出と乳房摘出の理由に性的虐待予防が挙げられていることについて
「性的虐待の責がAshleyに負わされている」と指摘したことに
ちょっと似ている。

どうも、
“科学とテクノの簡単解決”文化がはらんでいる倫理問題にも、
こうした自己選択・自己決定という名の当事者への自己責任への転嫁と
それに伴う専門職や社会の側への免責が付きまとっているような気がする。

新型出生前遺伝子診断だってそうだし、
(障害のある子どもだと分かって産むことは自己責任になり、
社会から支援の責任を免責する)

介護者による自殺幇助や慈悲殺が免罪されていくなら
どうにも面倒を見られなくなった時に要介護状態の人を“どうにかする”責任が
家族介護者に背負わされていくことになる。それと共に
社会は介護サービスや介護者支援制度を整備する責を免れていく。

たぶん、それは
その文化と直結したグローバルひとでなし強欲ネオリベ金融慈善資本主義の世界構造にも、
言えることだ。

それ以外に我が子を育てながら生きていく金を手に入れる手段がないから
代理母をやることだって、自己選択だし、

喰いつめて腎臓や眼を売るしかなくなるのだって自己決定なら、

国が認可したり推奨しているから安全だと信じて
ビッグファーマの予防医療マーケティングに乗るのも自己責任の自己決定。
キャンペーン張ってる人達は言っているもの。「自分でしっかり判断して」。

たぶん、中国から「研修生」として日本に働きに来るのだって
本人の自己選択なんだろう。

たとえそれが「研修生」という名目だけの
実態は奴隷労働であったとしても――。

Whose Right to Die?
The Atlantic, March 1997



そう言えば、今日、ある人のツイートに
まさにその通りだなぁ……と、深いため息とともに共感した。

ツイッターを辞めたためにRTできないので、
以下にコピペさせてもらおう。

元々困ってもいなかった金持ちがさらに金を集めてしかも分けないという仕組みを作っているだけとしか思えない。自助、自己責任の名の下にヒトが殺されていく時代の幕開けが礼賛されるこの不思議


なんで、こんなに救いのない世の中になってしまったんだろう??